月照と共に薩摩へ逃避した西郷隆盛〜別格の近衛家の依頼・師匠島津斉彬急死と「安政の大獄」という大嵐・決まった月照の運命・関ヶ原の島津義弘と徳川〜|西郷隆盛9・人物像・エピソード

前回は「江戸を脱出して薩摩へ向かった西郷隆盛〜敵中突破の島津家・師匠・斉彬急死に「生きる目的」をなくした西郷・地獄「安政の大獄」の始まり・反乱分子の一網打尽を目論む井伊大老〜」の話でした。

薩摩藩士 西郷隆盛(国立国会図書館)
目次

師匠・島津斉彬急死と「安政の大獄」という大嵐

第11代薩摩藩主 島津 斉彬(国立国会図書館)

極めて開明的であった薩摩藩主・島津斉彬の元、江戸で奔走を続けた西郷。

おい、西郷、
ちょっとこちらへ・・・

おいどんは
このように思うごわす!

封建体制の下では「絶対的存在」であった君主であり、主人であった島津斉彬。

島津斉彬様には
どこまでもついてゆくごわす!

西郷吉之助(隆盛)にとっては、主人であり師であったのが島津斉彬でした。

そして、

薩摩藩兵5,000名を
引き連れてゆく!

薩摩藩兵5,000名を率いて「上洛=出陣」を目論んでいた島津斉彬。

この時代は不穏になりつつありましたが、合戦は起きてなく、戦国時代より遥かに平和でした。

ところが、「5,000の軍事力」は、戦国時代でも強力です。

さらに、他ならぬ超強力な薩摩藩兵は、当時日本最強で別格でした。

「薩摩藩兵5,000」は、他藩の軍事力では「15,000名」に相当したでしょう。

ところが、その島津斉彬が急死してしまいました。

・・・・・

そして、生きる望みを失いかけていたところでした。

その西郷は、さらに追い討ちをかけられます。

大老 井伊直弼(Wikipedia)

徳川に
盾つく連中は、全て消す!

突然大老に就任した井伊直弼。

全員
ひっとらえろ!

ははっ!

この頃、すでに屋台骨が揺らいでいた徳川幕府。

超名門であり「徳川の守護神」とも言える井伊家から、登場した井伊直弼。

この超強力な人物が、大老という非常職につきました。

そして、

徳川幕府を
再興するのだ!

徳川ファーストであり、
セカンドはない!

強烈なテンションで、「反徳川」の一斉検挙に乗り出しました。

「安政の大獄」という大嵐を巻き起こした井伊直弼。

月照と共に薩摩へ逃避した西郷隆盛:別格の近衛家の依頼

僧侶 月照(Wikipedia)

僧侶でありながら尊王攘夷に傾倒し、近衛家などの有力公家とも親しかった月照。

月照も「徳川幕府の捕縛対象」となり、

薩摩の力で、月照の身を
守って欲しい・・・

という要望を受け、西郷は、

はっ!
分っかりました!

まだ若かった西郷は、やる気に燃えて、月照の保護を画策して、共に薩摩まで逃げることにしました。

江戸から薩摩まで、飛行機も自動車もない当時、ほぼ歩いて薩摩までなんとか月照を連れて行った西郷。

薩摩に
到着したごわす!

自分の立場は、薩摩藩に入れば大丈夫そうです。

斉彬死後、西郷を重用する雰囲気がなくなった薩摩。

第10代島津藩主 島津斉興(Wikipedia)

島津斉彬が急死し、前藩主である島津斉興が実権を握った薩摩。

薩摩藩の政治状況は、再び非常に保守的になっていました。

我が藩士である
西郷・・・・・?

知らん、
知らんぞ!

西郷隆盛のような下級武士を知らない島津斉興。

その西郷が・・・・
徳川幕府に睨まれているだと・・・

面倒だ・・・

西郷とやらは、
薩摩藩士である以上、保護してやっても良いが・・・

問題は尊皇攘夷の僧侶・月照です。

当時、過激派であった尊皇攘夷派の中でも知名度が高かった月照。

月照・・・・・?

ふう・・・・・

近衛家と
親しいのか・・・

元々島津家は、最有力公家である近衛家と親しいです。

そして、摂関家の中でも超名門の近衛家。

摂関家・五摂家

・近衛家

・一条家

・九条家

・鷹司家

・二条家

いずれも「いかにも高貴な名前」が並びますが、この中でも「近衛」は別格です。

「近衛兵」の名称もあるとおり、近衛家は名門中の名門です。

新歴史紀行
近衛文麿 内閣総理大臣(Wikipedia)

第二次世界大戦の頃には、近衛家から「政界のサラブレッド」と呼ばれた近衛文麿首相が出ています。

公家への尊崇が強かった当時において、近衛の力は絶対的でした。

その近衛家からの頼みは無碍にはできません。

近衛家の頼みは、薩摩としては「なんとかしなければならない」ことでした。

しかし、
徳川に睨まれている人間を・・・

薩摩においたら、
どうなるんだ・・・

決まった月照の運命:関ヶ原の島津義弘と徳川

戦国武将 島津義弘(図説・戦国武将118 学研)

関ヶ原の合戦では、敵中突破して徳川の目の前を走り抜けて退却した闘将・島津義弘。

それ以来、「反徳川」の旗幟を鮮明にし続けている薩摩・島津。

徳川とは、敢えて
敵するつもりはないが・・・

我が島津を攻めるなら、
徹底抗戦だ!

徳川 家康(Wikipedia)

この際、
島津は取り潰す!

関ヶ原の合戦で島津家に「敵中突破」などされて、面目丸潰しだった「戦の徳川家」。

島津を
攻めよ!

関ヶ原の合戦直後から、島津家の領土への侵攻を具体化させます。

一方で、島津義弘は、

薩摩・大隅の我が領土を
完全要塞とせよ!

徳川が攻め込んできたら、
多大な犠牲をもたらしてみせる!

むう・・・
これは・・・

さらに、薩摩の南の島々を有していた薩摩藩。

徳川が派遣した明国(中国)との交易船を沈没させます。

我が薩摩を
敵にすると、こうなりますよ!

む、
むう・・・

お、
おのれ・・・

島津と戦うには、多大な時間がかかり、大きな犠牲が発生します。

その間に、「まだ残存していた豊臣家がどう動くか」も大問題です。

ここに至り、島津家の「謝罪+恫喝外交」に対して、家康は

やむを得ん・・・

妥協せざるを得なかったのです。

いつかは島津を
潰してやる!

この経緯を歴代の薩摩藩主は全員よく知っています。

徳川を怒らせたら、
取り潰しの可能性がある・・・

月照とやらは、
どこかで処断せよ!

島津斉彬が同じ立場であれば、

我が薩摩を頼った
月照殿は守ってみせる!

となったかもしれません。

ところが、島津斉彬はすでに「この世の人」ではありませんでした。

はるばる江戸から薩摩まで逃げたにもかかわらず、月照の運命は決まりました。

「最悪の方向へ」と。

次回は上記リンクです。

新歴史紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次