戦国の民衆から大人気「救いの神」織田信長〜「是非もなし」記載なし・本能寺と二条城を猛火で包んだ光秀・緻密な放火による信長「全て灰塵」〜|本能寺の変13・ルイス・フロイス「日本史」29

前回は「信長と信忠の遺体をこの世から消した光秀〜本能寺放火の謎と真相・明智軍と「一時間以上戦った」信忠軍・鉄砲重装備の明智軍との死闘〜」の話でした。

目次

本能寺と二条城を猛火で包んだ光秀:緻密な放火による信長「全て灰塵」

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本能寺の変(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

当時、誰も「予想のかけら」すらしなかった本能寺の変。

New Historical Voyage
ルイス・フロイス「回想の織田信長」(新歴史紀行)

ルイス・フロイスは、本国への報告書を「日本史」としてまとめ、緻密な描写をしています。

Frois

かくて、明智の軍勢は、ついに内部に侵入し、
火を放ったので、

Frois

多数の者が、生きながら
焼き殺された。

Frois

その中に混じり、信長の世継ぎの息子は、
他の武士たちと共に不幸な運命のもとに、生涯を終えた。

そして、二条城において、おそらく、「信忠軍100名程度vs光秀軍2,000名程度」の戦闘となりました。

明智光秀(架空)

信長も、信忠も
遺体を焼き尽くすのだ!

信長も信忠も遺体が一切消滅するほどの、猛烈な火に包まれた本能寺と二条城。

大抵の火災では、人の死体はある程度残ります。

そして、「信長軍」というよりも小姓ばかりであったため、「信長一同」は少数でした。

火災で大きく破損した遺体が「誰か」を見極めるのは、科学が進んだ現代でも困難です。

Frois

我らが知っていることは、その声だけでなく、
その名だけで、万人を戦慄せしめていた人間が、

Frois

毛髪といわず、骨といわず灰燼に帰さざる
ものは一つもなくなり、

Frois

彼のものとしては地上になんら
残存しなかったことである。

ここで、数量などにおいて緻密な描写をしているフロイスは、このように記録しています。

「信長の毛髪も、骨も残らなかった」ということは、かなりの猛火・業火であったはずです。

フロイスは、「信長自身が放火した」という伝聞を紹介してる話を、上記リンクでご紹介しています。

「信長側が放火する」のは、当然あったと考えるべきです。

それに対して、「攻撃され、殺される、自害する」中、どこまで上手く放火できたか。

これは、当時の武器弾薬などの性能を考えると、かなり難しいことでした。

これは、「信長側の放火」に加え「光秀側の緻密な放火」が加わった、と考えるのが合理的です。

双方が放火し、特に、光秀は、

明智光秀(架空)

京の民に人気がある
信長をさらし首にするわけにはいかぬ・・・

明智光秀(架空)

だが、信長が消え、この光秀が新たな主人であることを
民衆には認識してもらわねばならぬ・・・

明智光秀(架空)

そのためには、信長は
「確実に消えた」と知らしめるのだ!

おそらく、光秀は、このように考えた上で緻密な放火を行い、猛火で本能寺と二条城を包んだのでしょう。

戦国の民衆から大人気「救いの神」織田信長:「是非もなし」記載なし

新歴史紀行
戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この「信長と信忠の遺体が消える」猛火を放ったのは明智光秀、は筆者の推測です。

ところが、フロイス「日本史」、「信長公記」を読み合わせると、そう考えるのが合理的です。

後世の視点から見て、天下統一直前だった信長のイメージは「苛烈そのもの」です。

その一方で、「信長公記」では、家康や徳川家臣団に異常なまで心を配った信長が描写されています。

「家康接待」に手を尽くした信長の話を、上記リンクでご紹介しています。

「苛烈そのもの」である、織田信長のイメージ。

それは、江戸時代の講談などの影響が強く、信長に対するイメージが膨らんだ、と考えます。

実際の信長は、おそらく京の民衆からも大人気であったでしょう。

なんといっても「戦乱の京都」を「都の京都」に復活させた信長。

京都の民衆S

信長様の
おかげで、京は平和になった!

京都の民衆U

信長様が、荒れ果てていた京都を、
立派な街にしてくれた!

当時の、京都の民衆にとって、信長は「救いの神」であったのは当然でした。

その「救いの神」信長の首を「さらし首にする」ことは、光秀の「叛逆の象徴」となることでした。

Frois

そして、わずか二時間の間に、
彼は現世の財宝や快楽と富を残したまま、

Frois

未来永劫に
地獄に葬られるに至った。

さらに、数量などに極めて緻密な描写であるフロイスは、「二時間」という明確な時間を記しています。

ここで、「彼」とは信長を指すので、この二時間に「信忠の二条城は含まない」と考えます。

とにかく、「たった二時間の攻撃」によって、「全てが灰燼に帰した」信長。

二時間という時間は、当然ながら「およそ」であり、時間の幅はあります。

「一時間半〜二時間半」ほどであり、そもそも「いつから攻撃と見るか」にもよります。

いずれにしても、明智軍の本能寺攻撃開始から、信長と信長の小姓たちは頑強に抵抗しました。

織田信長

おのれ、
光秀めが!

織田信長

直ちに、
火を放つのだ!

本能寺を猛火で包んだ時間は、最大でも一時間半と考えるべきです。

古来から、木造である日本建築は「燃えやすい」と言われます。

それは、西洋の「石造建築」と比較して「はるかに燃えやすい」であり、それほど燃えないのが現実です。

さらに、当時は現代よりも防水技術が劣ったので、雨によって、木は湿り気を帯びやすい状況でした。

たった一時間半ほどで、「建物全体を猛火に包み、信長を消した」という事実。

この事実からは、光秀が「極めて入念に放火した」事実が明瞭に見られます。

「本能寺の猛火」に関しては、実に様々な説が流れ、作家たちも推測しました。

ここで、フロイスの「二時間」や光秀の人格の記載から、「全ては光秀の計画」と判明します。

多数の客観的事実を羅列する、極めて貴重な書籍である、ルイス・フロイス「日本史」。

織田信長

是非も
なし・・・

その一方で、フロイス「日本史」には、この信長の超有名なセリフが記載されていません。

これに関しては、フロイスは、

Frois

「是非もなし」というのは、
特段に重要な情報ではない・・・

このように考えたのか、あるいは、

Frois

特に信長様の
最後の言葉の情報はない・・・

「そういうセリフはなかった」のかも知れません。

とにかく、丹念に読むと様々な事実が浮かび上がってくるのが、フロイス「日本史」と考えます。

織田信長と織田信忠の二人が一気に消され、1582年6月2日は、日本の歴史の節目となりました。

新歴史紀行

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