前回は「光秀に「切腹すべきかどうか」質した皇子〜光秀「馬や駕籠で出るな」・「本能寺三、四年前建築」の二条御所・冷静に妙覚寺から移動した信忠〜」の話でした。
明智軍と「一時間以上戦った」信忠軍:鉄砲重装備の明智軍との死闘

明智光秀信長を
討ち取った!



次は
信忠だ!


当時、宣教師として日本に滞在していた、ルイス・フロイスは、当時の記録を克明に残しています。
織田信長、豊臣秀吉、大友宗麟など、多数の様々な大名に関して、実に緻密な描写をしたフロイス。





そして、彼は、特に安土で信長から
毛利との戦いにおける羽柴を援助するため・・・



七、八千の兵を率いて、
直ちに出動を命ぜられた武将の一人であった。
フロイスは、明智軍が「七、八千の兵だった」と記録しており、筆者はこれが実数と考えます。
おそらく、信長の本能寺、信忠の妙覚寺、京都全域包囲の三手に分けた光秀。
信忠にも同時期に襲い掛かったでしょうが、「まずは信長」だったはずです。
ここで、信忠は、妙覚寺から二条城に移動しましたが、



自分は、いかになすべきか、
切腹すべきかどうか。
当時、二条城には、正親町天皇の息子・皇子誠仁親王がいたため、皇子は光秀に問いかけました。



殿下に対しては、何もしようとは
思っておらず、



直ちに同所から
出られるが良いと思う。



ただし、信長の息子、城介殿が
逃亡することがあってはならぬから、



馬や駕籠で出ることが
ないように。
こうして、皇子が退避したため、本格的な戦闘に入った信忠軍と明智軍。



明智を迎え討ち、
最後まで戦うのだ!



二条御所の内部にいたのは、選り抜きの重だった
武将たちであったので、



実によく奮闘し、一時間以上にわたって
戦ったが、外部の敵は多く、



よく武装されていた上に、
大量の鉄砲を具備していたので、



内部からの抵抗は
困難を極めた。
ここで、フロイスは「一時間以上、信忠が抵抗した」事実を伝えています。
籠城戦とはいえ、二条城は、それほど防備が高い城塞ではなかったと考えます。
さらに、超緊急であり、「おっとり刀」状態だった信忠軍。
それに対して、毛利軍と戦う羽柴軍への援軍で、武装バッチリ、鉄砲多い明智軍。



撃て、撃て、
鉄砲で攻撃するのだ!
堅固な城郭でも、当時の鉄砲は大きな力になりました。
館程度の防備だった二条城において、明智軍の鉄砲は、かなり戦力になったでしょう。
信長と信忠の遺体をこの世から消した光秀:本能寺放火の謎と真相


1582年6月2日、当時は平穏になって、しばらくは落ち着いた雰囲気だった京が動乱の最中となりました。



その間、嗣子(信忠)は、非常に勇敢に戦い、
銃弾や矢を受けて、多く傷ついた。



かくて、明智の軍勢は、ついに内部に侵入し、
火を放ったので、



多数の者が、生きながら
焼き殺された。



その中に混じり、信長の世継ぎの息子は、
他の武士たちと共に不幸な運命のもとに、生涯を終えた。
そして、信忠もまた、この世から消えてしまいました。
ここで、フロイスは、「明智軍が火を放った」と明記しています。
おそらく、光秀の立場から考えれば、「信忠の首」は欲しかったはずでした。
「信長の首」と「信忠の首」を晒すことで、自分が新たな覇者になったことを示す手段が有力でした。
フロイスの記述によると、本能寺でも明智軍が火を放った記述があります。
後世の視点から見れば、この「明智軍が火を放つ」のはいかにも不合理と考えられます。
その一方で、全てにおいて緻密な記録を残したフロイス。
全ての描写において、兵力、数量、時間などを明瞭に記録しています。
すると、この「明智軍が火を放った」というフロイスの描写は「事実である」と考えます。
この点を考えると、「この世から毛髪も骨も消えてしまった」信長と信忠。
これらの信長と信忠の埋葬に関しては、諸説あります。
「信長の遺体を荼毘にし、骨を持って脱出した」僧侶の説もあります。
ところが、明智軍の包囲の中いかに僧侶といえども、それは不可能であった、と考えます。



信長も、信忠も
遺体を焼き尽くすのだ!
すると、明智光秀の方に「信長と信忠の遺体を焼き尽くす」意図があった、としか考えられません。
戦国の世において、相手を倒したことを周囲に触れる宣伝でもあった「さらし首」。
これを「やらなかった」光秀の戦略の意図は何か。
これを考えると、



信長と信忠の首を
さらし首にするのは、やらぬ・・・



信長も信忠も、京では
人気があるから、反感を買うだろう・・・
おそらく、光秀はこう考えた、と筆者は推測します。
「信長と信忠のさらし首」は、「逆効果の宣伝になる」と。



その代わり、彼らには
この世から全て消えてもらうのだ!
そして、光秀は、入念に火を放ち、場合によっては油などを撒き、一気に放火したと考えます。
ずっと「歴史の謎」であった、「信長の遺体が消えてしまった」事実。
この点は、様々な憶測を呼び、多数の書籍がこの点を描写しています。
フロイス「日本史」と「信長公記」を読んだ結果、筆者は「信長の遺体が消えた真相はただ一つ」と考えます。
それは緻密な戦略家であった光秀が、「極めて入念に信長と信忠の遺体を焼き尽くした」でした。

