前回は「徳川家に駿河・遠江を「進呈」した信長〜徳川家への気遣いと配慮武田討滅で「本懐遂げた」信長・武田最大版図築いた武田勝頼〜」の話でした。
「手を尽くして家康接待」命じた信長:見えた「織田と徳川の天下」

信長公記武田勝頼・同信勝・同信豊ほか
武田勝頼一門の歴々を打ち果たして・・・



本懐を
遂げた。



そして、駿河・遠江両国を
徳川家康に進呈し・・・
ようやく「長年の宿敵」であった武田家を討滅し、「本懐遂げた」信長。



徳川殿、
駿河・遠江を進呈する・・・



有り難く
頂戴します・・・



その御礼のため、このたび家康と梅雪が
安土へ来ることになった。



信長は、



この二人を丁重に
接待しなければならぬ。



と言って、まず街道を
整備させ、



二人の宿泊地ごとに国持ち・郡持ちの
大名たちが出向き・・・



出来るだけ手を尽くして
接待せよ!



と
命令した。
安土へ「返礼に来る」家康に対して、信長は異様なほどに気を遣いました。
傲岸不遜のイメージが強く、自らを「第六天魔王」とし、天皇を上回る存在を模索していた信長。
この「異様な気遣い」には、信長の安堵と家康への感謝が見て取れます。


日本の中央を占め、当時800万石とも言われる大領土を保有し、莫大な経済力を有した織田家。
そして、駿河・遠江・三河の徳川家は80万石ほどの大名となりました。
長年の宿敵・武田を破り、残る強力な敵は、毛利家くらいしかいない状況でした。
この頃、すでに島津家は大いに勢力を張り始めていましたが、まだまだ大友家も強力でした。
駿河からわざわざ安土に来る家康は、実はかつて遥々近江まで軍勢を率いてきたこともありました。



安土へ
行こう・・・



そういえば、姉川の戦いの時も
近江へ行ったな・・・
家康は、このような様々な思い出を感じながら、安土に向かったでしょう。
まだまだ戦国の戦乱が続く中、「できる限りの接待」を命じた信長。
おそらく、すでに「織田と徳川による天下平定」が、信長の目には見えていたのでしょう。
「織田家総出」の家康出迎え:織田信忠が家康訪問





五月十四日、家康と穴山梅雪は
近江の番場に到着した。



丹羽長秀が、番場に建てておいた仮の館で、
食事を調え一夜の接待をした。





徳川様のために、館を
建てましたので、どうぞ・・・
まずは、織田家重臣であり、信長にとって「特別な存在」であり続けた丹羽長秀が登場しました。



同じ日に、織田信忠が上洛の途次、
番場に立ち寄ってしばらく休息した。





これは、徳川殿、
ようこそ安土へ・・・
ついで、信長の長男であり、織田家後継者であった織田信忠までもが、家康を丁重に迎えました。
当時、「天下の織田家後継者」信忠の立場は、皇太子に近い存在だったと考えます。



この時にも、丹羽長秀が酒肴の
接待をした。



信忠は、その日のうちに
安土へ出発した。



五月十五日、家康は番場を
出発し、安土に到着した。



信長は、



宿舎は大宝坊が
よかろう!



と言い、接待のことは
明智光秀に命じた。



光秀は、京都・堺で珍しい食料を
調達し、大変気を張って接待した。





徳川様、京・堺で
珍しき珍味を取り揃えました・・・



これは明智殿、
お気遣い頂き、痛み入る・・・
そして、最後に明智光秀が登場しました。



十五日から十七日まで
三日間に及んだ。
「本能寺」のこともあり、「家康接待」に関しては、光秀ばかりが注目される傾向があります。
実は、織田信忠・丹羽長秀・明智光秀の三名が「思い切り家康を接待」していたのが事実です。


| 名前 | 立場 | 家康接待時の居場所 |
| 織田信忠 | 織田家後継者 | 美濃・近江 |
| 柴田勝家 | 北陸方面司令官 | 越中 |
| 滝川一益 | 関東方面司令官 | 上野 |
| 明智光秀 | 近畿方面司令官 | 京 |
| 丹羽長秀 | 安土城築城総奉行 | 近江 |
| 羽柴秀吉 | 中国方面司令官 | 備中 |
当時、織田家大幹部のうち、京周辺にいた人物は全て「家康のために結集して接待」しました。
特に、未来の王者・織田信忠までもが、わざわざ気を遣って、家康を訪問していた事実は重要です。
| 名前 | 生年(一部諸説あり) |
| 織田信長 | 1534年 |
| 柴田勝家 | 1522年 |
| 滝川一益 | 1525年 |
| 明智光秀 | 1528年 |
| 丹羽長秀 | 1535年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
| 織田信忠 | 1557年 |
「織田家総出」の大接待によって、家康をもてなした信長でした。

