織田信長と羽柴秀吉の謎〜桶狭間の戦いの謎・謎に満ちた今川義元の本陣の位置・三人の天下人が全員関与・情報を集めた形跡がない武田信玄・山本勘助の「桶狭間」への関与説〜|羽柴秀吉6・人物像・軍事能力・エピソード

前回は「織田家に仕え始めた秀吉〜民衆の底力・兵農分離以前の軍隊・清洲城塀の迅速な修理・「桶狭間の戦い」の秀吉・今川義元の本陣と今川軍〜」の話でした。

羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

信長と秀吉の謎:桶狭間の戦いの謎

桶狭間・田楽狭間の戦い図(戦国大合戦絵巻 ダイアプレス社)

桶狭間・田楽狭間の戦いの時の秀吉の活躍に関しては、詳しいことは分かっていません。

多くは、想像や創作の域を出ません。

戦前から長い間、「信長が今川義元を側面から奇襲した」という説が流布していました。

この説は、戦前の参謀本部の公式見解だったとも言われます。

1990年頃から「側面奇襲」は見直され、「信長が正面攻撃をした」という説もあります。

おそらく参謀本部の考えは、

参謀本部

我が大日本帝国よりはるかに
国力が上の米国との戦争・・・

そもそも「主要軍需物資の大部分を米国から輸入していた」大日本帝国。

日本の軍需物資の依存度(歴史人2021年8月号 ABCアーク)

よりによって、最強国であり「軍需物資を頼っていた」米国と戦っては、「勝ち目はない」のです。

参謀本部

どう考えても、
我が国が不利だ・・・

ここで、「桶狭間の信長の側面奇襲」を大々的に持ち上げて、

参謀本部

信長の如く、奇襲攻撃に成功すれば、
米国にも勝てるかもしれない!

「桶狭間の如く戦う!」と宣伝したのでしょう。

正常な頭脳と神経を持つ人間にとっては、どう考えても「米国に勝てるはずがない」戦争でした。

考えようによっては、

参謀本部

信長は、準備万端で自国奥深くへ
義元を誘い込み・・・

参謀本部

一気に雌雄を決して、
勝利したのだ!

こう思い込むことで、「大日本帝国の勝利」を自分に言い聞かせていたのかもしれません。

この「引きつけて奇襲攻撃」の最たる戦略コンセプトが、日本海軍の「日本近海での迎撃」だったのでしょう。

謎に満ちた今川義元の本陣の位置:三人の天下人が全員関与

戦国大名 今川義元(Wikipedia)

今川義元が討たれた時、谷間にいたのか山上に陣取っていたかすら諸説あり、真相は不明です。

織田家は経済力が高く、今川家には及ばないものの8,000人ほど動員は可能だったでしょう。

桶狭間・田楽狭間の戦い図(戦国大合戦絵巻 ダイアプレス社)

それでも軍事力が劣り、25,000人の今川軍に対しては「1/3程度の劣勢」です。

そこで、平野での戦いではなく、「本陣を奇襲」で勝利したのでしょう。

いわば「信長の大出世のきっかけ」となった桶狭間の合戦。

これほど有名な大合戦の「奇襲なのか正面突破なのか」という基本的真相が不明であること。

そもそも「田楽狭間」という「谷にいた」と言われる今川義元の本陣。

別の説では、「田楽狭間にいたが、本陣は山の上だった」という話もあります。

なにもかもが「不明」であり「真相が分からない」こと。

それは、後の天下人の信長・秀吉・家康全員が関わっている点で、「非常に不可解なこと」でもあります。

信長公記他で色々な描かれ方をしていますが、書籍によって実に様々です。

情報を集めた形跡がない武田信玄:山本勘助の「桶狭間」への関与説

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「戦いの真相」は不明なことが多く、多くは伝聞・二次情報によります。

戦国時代の合戦では、ベスト10入り確実の「桶狭間の合戦」。

その「真相が謎」というのは不思議です。

戦好き・軍略好きの武田信玄なら、諜報部隊を総動員しても調べて記録に残しそうです。

戦国大名 武田 晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
名前生年(一部諸説あり)
毛利元就1497年
今川義元1519年
武田信玄1521年
上杉謙信1530年
織田信長1534年
立花道雪と戦国武将・大名の生年

そもそも、戦国時代において「やや年上」であり、老練な印象が強い信玄の「さらに2歳上」の義元。

「桶狭間」での失態から、長年愚将のように扱われてきた義元ですが、一定以上の力量があったのは間違い無いでしょう。

信玄にとって「家柄が上で、先輩である」義元の不慮の死。

しかも、自分より「13歳も歳下の若造」信長が引き起こした大事件。

武田信玄

今川義元が
首を取られた、だと?!

武田信玄

そんなバカなことが
あるか!

武田信玄

詳しく合戦の状況を
調べて、報告せよ!

武田家重臣A

ははっ!
諜者・忍者たちを大至急尾張へ向けます!

武田信玄は「全力で真相を調べたはず」なのに、「情報を集めた形跡がない」のです。

武田家臣 山本勘助(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「謎の軍師 山本勘助(管介)が関わっていた説」もあります。

「山本勘助説」もまた後世の創作でしょう。

仮に勘助が関わり、「今川義元敗死」に結びついたとしたら、

武田信玄

「桶狭間」のことは、
記録には残すまい・・・

信玄は「あえて深追いせず、記録にも残さない」姿勢だったでしょう。

ところが、山本勘助の存在すら不確かであり、近年は「勘助(管介)は実在するも、立場が不明」という存在。

「記録に残さない」であれば、「不明」である理由もあるでしょう。

そして、武田信玄が駿河に侵攻したのは、「桶狭間」の8年後の1568年。

仮に「信玄が勘助に指示し、今川義元敗死の黒幕」であれば、駿河侵攻は遥かに早かったはずです。

すると、「桶狭間への勘助関与説」は否定されます。

とにかく、謎多き「桶狭間の合戦」の真相。

歴史を転換した極めた大きな合戦・事件、三人の天下人が全員関与したにしては、謎が多すぎるのです。

次回は上記リンクです。

新歴史紀行

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