前回は「いつ光秀は「謀反を決意」したか?〜謀反反乱が多発した戦国期・安土城留守番衆「蒲生+山岡+佐久間」・信長に懸命に仕えた佐久間信盛と一族〜」の話でした。
信長近辺少人数の正体:「中国出陣の準備して待機、命令あり次第出陣」

信長の一生を、比較的淡々と詳細に記録している信長公記。
「本能寺の変」前後の状況もまた、著者の太田牛一は淡々とした口調で語っています。

織田信長自ら出陣して、
中国の歴々を討ち果たし・・・



九州まで一気に
平定してしまおう!
秀吉から、毛利軍が一気に出陣したことを聞いて、「九州まで一気に平定」を目論んだ信長。
信長公記では、信長がこう言ったことを淡々と記録していますが、いかにも信長らしいです。
「九州まで一気に平定」と信長が言った話を、上記リンクでご紹介しています。



安土城本丸のお留守衆に、織田信益・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・
遠山新九郎・世木弥左衛門・市橋源八・櫛田忠兵衛。



二の丸の御番衆に、蒲生賢秀・木村高重・雲林院(うじい)祐基・
鳴海助右衛門・祖父江秀重・佐久間盛明・箕浦次郎右衛門・・・



福田三河守・千福遠江守・松本為足・丸毛長照・鵜飼某・
前波弥五郎・山岡景佐。
そして、信長公記では、特に武将名、地名などが極めて詳細に記録されている点が重要です。



これらの者に命じ、お小姓衆
二、三十人を召し連れて上洛した。



直ちに中国へ出陣せねば
ならぬので・・・



戦陣の用意をして
待機、命令あり次第出陣せよ!



と言う命令であったから、
この度はお小姓衆以外は随行しなかった。
「本能寺の変」において、最も重要ポイントの一つである「信長が極めて少ない軍勢のみだった」点。
これに関しては、信長が油断していた、京で異変があることは全く想定しなかった、など諸説あります。
ここで信長公記では淡々と記載していますが、「中国出陣のための準備」だったことを明らかにしました。
つまり、「出陣のための準備に時間がかかる」ので、安土の部隊は「待機、命令あり次第出陣」でした。
このことこそが、まさに「信長の近辺が極めて少数だった」理由の正体でした。
「敵は本能寺にあり」の虚説:明智家部将先陣で「信長への叛逆」へ





そしてここに、
思いがけない事態が勃発した。



六月一日夜になって、
丹波亀山で明智光秀は信長への叛逆を企て・・・



明智秀満、明智次右衛門、
藤田伝五、斎藤利三らと相談して・・・



信長を打ち果たし天下の主となる
計画を練り上げた。


信長公記で、明智家重臣筆頭として登場する明智秀満。
光秀の娘婿であり、「明智」姓を与えられた秀満は知性派の猛将で著名でした。
まさに、光秀の懐刀であった秀満。
光秀は、おそらく「まずは秀満のみに相談した」と考えますが、この点は触れていません。
太田牛一の視点から考えると、「不明な点は記載しない」と考えたと思われます。
秀満に続いて、明智次右衛門・藤田伝五が続き、そして斎藤利三となります。


「明智の槍神」と言われた超猛将・斎藤利三。
これら四名の重臣たちと、光秀は相談した、と信長公記では伝えています。



亀山から中国筋へは
三草山を越えるのが普通である。



しかし、光秀はそこへは向かわず、
亀山から馬首を東へ向けた。



老の山へ上り、
山崎を廻って摂津の地を進軍する。



と兵たちには触れておき、
先に相談した部将たちに先陣を命じた。



六月一日夜、軍勢は
老の山へ上った。



右へ行く道は
山崎・天神馬場を経て摂津街道・・・



左へ降れば
京都へ出る道である。
いよいよ、運命の分かれ道に到達した明智軍。
小説などでは、明智光秀自ら軍勢を率いて、



敵は
本能寺にあり!
このように兵に告げて、京都へ進軍するエピソードが多いです。
信長公記では、「部将たちに先陣を命じた」と記録し、先陣は光秀ではなかった、のが実態です。
太田牛一は、その場にいたのではないので、伝聞と憶測によると考えます。
信長公記の記録が正しいとすると、おそらく、親族であり重臣筆頭の明智秀満が先陣だったと考えます。



ここを左へ下り、桂川を超えたところで、
ようやく夜も明け方になった。
そして、粛々と軍勢を進める明智軍は、桂川を超えて、本能寺間近に至りました。


