前回は「信長の「最後の上洛」〜安土城から世界を睨んでいた信長・「日本的」ではない豪華絢爛建築・安土城築城大臣丹羽長秀の巨大な政治力〜」の話でした。
いつ光秀は「謀反を決意」したか?:謀反・反乱が多発した戦国期

織田信長の一生が綴られた信長公記は、極めて詳細な描写が多数あります。
本能寺の変直前の頃の信長を取り巻く、織田家重臣、徳川家康などの動きが詳細に記録されています。

明智光秀ときは今 あめが下知る
五月かな 明智光秀・・・



五月二十八日、
丹波の亀山に帰城。
光秀が、「いつ信長への謀反を決心したか」は諸説あり、明確な記録は残っていません。
そもそも、その答えは「光秀の頭脳の中にのみあった」ため、記録に残るはずもありませんでした。
「戦国最大の事件」とも言える本能寺の変。
日本の歴史においても、本能寺の変は「歴史を変えた事件・出来事」の一つです。
それほど、巨大な出来事であった本能寺の変。
その一方で、本能寺の変は、「当時多発していた様々な謀反の一つ」と見方も可能です。
確かに、「天下を制圧したも同然」の立場であった織田信長。
その一方で、織田家の領土は、「当時の日本」の全領土の1/3程度でした。
軍事力・経済力は圧倒的立場でしたが、まだまだ「日本の帝王」ではなかった信長。


反乱や謀反が日常茶飯事であった戦国期において、長尾景虎(上杉謙信)もまた謀反に悩まされました。



越後の北部で
また謀反か・・・
独立心が強い国衆・地侍が多かった越後では、反乱が起こり続けました。





我が長男・義信が
謀反を企んでいる、と・・・
そもそも、「自分が父親に謀反」して甲斐・武田家当主となった武田信玄。
武田信玄は、長男・義信が反逆を企んだ事実を把握して、処断しました。
時代が違っても、「自分の子どもを処断する」のは、親としては痛恨を超えたことのはずです。
このように、謀反・反乱は珍しくなく、むしろ頻発していたのが戦国期でした。



ときは今 あめが下知る
五月かな 明智光秀・・・
この時、光秀は「ほぼ決定していた」はずでした。
信長に対する謀反、を。
安土城留守番衆「蒲生+山岡+佐久間」:信長に懸命に仕えた佐久間信盛と一族





五月二十八日、
丹波の亀山に帰城。



五月二十九日、
信長は上洛した。



安土城本丸のお留守衆に、織田信益・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・
遠山新九郎・世木弥左衛門・市橋源八・櫛田忠兵衛。



二の丸の御番衆に、蒲生賢秀・木村高重・雲林院(うじい)祐基・
鳴海助右衛門・祖父江秀重・佐久間盛明・箕浦次郎右衛門・・・



福田三河守・千福遠江守・松本為足・丸毛長照・鵜飼某・
前波弥五郎・山岡景佐。
安土城に残る家臣・武将たちの名前を、丁寧に記録した太田牛一。
本丸筆頭の織田信益は、信長の従兄弟にあたる人物でした。
そして、二の丸筆頭には、近江出身の国人だった蒲生賢秀が登場します。


蒲生賢秀は、著名な戦国武将・蒲生氏郷の実の父親でした。
若い頃から優れた武将であった氏郷は、織田信長に可愛がられ、信長の娘・冬姫を娶りました。
つまり、織田信長の「真の親族」であった蒲生賢秀は、信長にとって大事な人物でした。
だからこそ、安土城の二の丸を任せた信長。
賢秀筆頭の二の丸衆の最後にいる、山岡景佐もまた重要な人物です。
本能寺の変後、兄・景隆と共に、光秀の誘いを断って、瀬田の橋を叩き壊した豪傑でした。
二の丸御番衆の中の「佐久間盛明」と言う武将が気になります。


佐久間盛明のその後は不明ですが、明らかに佐久間信盛の親族と思われます。
元々、尾張の大豪族・佐久間家の中心人物であった佐久間信盛は、織田家の中心人物であり続けました。
| 名前 | 生年(一部諸説あり) |
| 林秀貞 | 1513年 |
| 柴田勝家 | 1522年 |
| 滝川一益 | 1525年 |
| 明智光秀 | 1528年 |
| 佐久間信盛 | 1528年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 丹羽長秀 | 1535年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
信長の6歳年上であり、ずっと織田家の中核軍団の軍団長を務め続けた佐久間信盛。
ところが、1580年に信長から「突如の折檻状」を受けて、完全に失脚しました。



な、なぜ
私が追放に・・・
そして、「本能寺」直前の1582年1月に佐久間信盛は、高野山で死去した、と伝えられます。





信盛が
死んだか・・・



・・・・・



ならば、長男の信栄は
許し、信忠につけよう・・・
その直後、信盛の長男・信栄は許され、織田信忠直属の家臣となりました。
信栄の立場は、かつての信盛の立場とは大違いで、「軽い立場」だったと伝わります。
それは当然のことであり、「一度は追放した」人物の息子を重役につけるわけにはいきません。
ここで、信栄を、信長が「将来の覇王」である信忠に付けた点は注目です。
「凡将」と言われることが多い佐久間信盛は、一定の能力を持った武将でした。
だからこそ、長く織田家の中核を務め、信長に忠誠を誓い続けてきたのでした。
信長の「信栄を信忠家臣に」には、将来「信栄をある程度の立場にする」意図があったと推測します。
いずれにしても、二の丸御番衆の一人「佐久間盛明」もまた、懸命に信長に仕えていました。
そして、本能寺の変に至ります。

