いつ光秀は「謀反を決意」したか?〜謀反反乱が多発した戦国期・安土城留守番衆「蒲生+山岡+佐久間」・信長に懸命に仕えた佐久間信盛と一族〜|本能寺の変8・信長公記15

前回は「信長の「最後の上洛」〜安土城から世界を睨んでいた信長・「日本的」ではない豪華絢爛建築・安土城築城大臣丹羽長秀の巨大な政治力〜」の話でした。

目次

いつ光秀は「謀反を決意」したか?:謀反・反乱が多発した戦国期

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信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)

織田信長の一生が綴られた信長公記は、極めて詳細な描写が多数あります。

本能寺の変直前の頃の信長を取り巻く、織田家重臣、徳川家康などの動きが詳細に記録されています。

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織田家重臣 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
明智光秀

ときは今 あめが下知る
五月かな 明智光秀・・・

信長公記

五月二十八日、
丹波の亀山に帰城。

光秀が、「いつ信長への謀反を決心したか」は諸説あり、明確な記録は残っていません。

そもそも、その答えは「光秀の頭脳の中にのみあった」ため、記録に残るはずもありませんでした。

「戦国最大の事件」とも言える本能寺の変。

日本の歴史においても、本能寺の変は「歴史を変えた事件・出来事」の一つです。

それほど、巨大な出来事であった本能寺の変。

その一方で、本能寺の変は、「当時多発していた様々な謀反の一つ」と見方も可能です。

確かに、「天下を制圧したも同然」の立場であった織田信長。

その一方で、織田家の領土は、「当時の日本」の全領土の1/3程度でした。

軍事力・経済力は圧倒的立場でしたが、まだまだ「日本の帝王」ではなかった信長。

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戦国大名 上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

反乱や謀反が日常茶飯事であった戦国期において、長尾景虎(上杉謙信)もまた謀反に悩まされました。

上杉謙信

越後の北部で
また謀反か・・・

独立心が強い国衆・地侍が多かった越後では、反乱が起こり続けました。

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戦国大名 武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
武田信玄

我が長男・義信が
謀反を企んでいる、と・・・

そもそも、「自分が父親に謀反」して甲斐・武田家当主となった武田信玄。

武田信玄は、長男・義信が反逆を企んだ事実を把握して、処断しました。

時代が違っても、「自分の子どもを処断する」のは、親としては痛恨を超えたことのはずです。

このように、謀反・反乱は珍しくなく、むしろ頻発していたのが戦国期でした。

明智光秀

ときは今 あめが下知る
五月かな 明智光秀・・・

この時、光秀は「ほぼ決定していた」はずでした。

信長に対する謀反、を。

安土城留守番衆「蒲生+山岡+佐久間」:信長に懸命に仕えた佐久間信盛と一族

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安土城天主 信長の館(新歴史紀行)
信長公記

五月二十八日、
丹波の亀山に帰城。

信長公記

五月二十九日、
信長は上洛した。

信長公記

安土城本丸のお留守衆に、織田信益・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・
遠山新九郎・世木弥左衛門・市橋源八・櫛田忠兵衛。

信長公記

二の丸の御番衆に、蒲生賢秀・木村高重・雲林院(うじい)祐基・
鳴海助右衛門・祖父江秀重・佐久間盛明・箕浦次郎右衛門・・・

信長公記

福田三河守・千福遠江守・松本為足・丸毛長照・鵜飼某・
前波弥五郎・山岡景佐。

安土城に残る家臣・武将たちの名前を、丁寧に記録した太田牛一。

本丸筆頭の織田信益は、信長の従兄弟にあたる人物でした。

そして、二の丸筆頭には、近江出身の国人だった蒲生賢秀が登場します。

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織田家家臣 蒲生氏郷(WIkipedia)

蒲生賢秀は、著名な戦国武将・蒲生氏郷の実の父親でした。

若い頃から優れた武将であった氏郷は、織田信長に可愛がられ、信長の娘・冬姫を娶りました。

つまり、織田信長の「真の親族」であった蒲生賢秀は、信長にとって大事な人物でした。

だからこそ、安土城の二の丸を任せた信長。

賢秀筆頭の二の丸衆の最後にいる、山岡景佐もまた重要な人物です。

本能寺の変後、兄・景隆と共に、光秀の誘いを断って、瀬田の橋を叩き壊した豪傑でした。

二の丸御番衆の中の「佐久間盛明」と言う武将が気になります。

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織田家重臣 佐久間信盛(Wikipedia)

佐久間盛明のその後は不明ですが、明らかに佐久間信盛の親族と思われます。

元々、尾張の大豪族・佐久間家の中心人物であった佐久間信盛は、織田家の中心人物であり続けました。

名前生年(一部諸説あり)
林秀貞1513年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
佐久間信盛1528年
織田信長1534年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家重臣の生年

信長の6歳年上であり、ずっと織田家の中核軍団の軍団長を務め続けた佐久間信盛。

ところが、1580年に信長から「突如の折檻状」を受けて、完全に失脚しました。

佐久間信盛

な、なぜ
私が追放に・・・

そして、「本能寺」直前の1582年1月に佐久間信盛は、高野山で死去した、と伝えられます。

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戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
織田信長

信盛が
死んだか・・・

織田信長

・・・・・

織田信長

ならば、長男の信栄は
許し、信忠につけよう・・・

その直後、信盛の長男・信栄は許され、織田信忠直属の家臣となりました。

信栄の立場は、かつての信盛の立場とは大違いで、「軽い立場」だったと伝わります。

それは当然のことであり、「一度は追放した」人物の息子を重役につけるわけにはいきません。

ここで、信栄を、信長が「将来の覇王」である信忠に付けた点は注目です。

「凡将」と言われることが多い佐久間信盛は、一定の能力を持った武将でした。

だからこそ、長く織田家の中核を務め、信長に忠誠を誓い続けてきたのでした。

信長の「信栄を信忠家臣に」には、将来「信栄をある程度の立場にする」意図があったと推測します。

いずれにしても、二の丸御番衆の一人「佐久間盛明」もまた、懸命に信長に仕えていました。

そして、本能寺の変に至ります。

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