前回は「「敵は本能寺にあり」の虚説〜明智家部将先陣で「信長への叛逆」へ・信長近辺少人数の正体〜「中国出陣の準備して待機、命令あり次第出陣」〜」の話でした。
信長公記に記載ない「明智軍の京侵攻先陣武将」:先陣は明智秀満か?

信長公記は、本能寺の変前後の状況を淡々と、緻密に記録しています。
信長公記六月一日夜、軍勢は
老の山へ上った。



右へ行く道は
山崎・天神馬場を経て摂津街道・・・



左へ降れば
京都へ出る道である。



ここを左へ下り、桂川を超えたところで、
ようやく夜も明け方になった。
小説などでは、光秀が「自ら先陣を切って、京都に侵入」と描かれることが多い本能寺の変。
事実は、通常通り、明智軍の部将・重臣が先陣を切って、京都へ侵入しました。


この「明智軍先陣の部将名」を、いつもは緻密に人名を記録する信長公記では記録していません。


「明智軍先陣の部将」は、明智秀満なのか、斎藤利三なのか、全く不明です。



安土城本丸のお留守衆に、織田信益・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・
遠山新九郎・世木弥左衛門・市橋源八・櫛田忠兵衛。



二の丸の御番衆に、蒲生賢秀・木村高重・雲林院(うじい)祐基・
鳴海助右衛門・祖父江秀重・佐久間盛明・箕浦次郎右衛門・・・



福田三河守・千福遠江守・松本為足・丸毛長照・鵜飼某・
前波弥五郎・山岡景佐。
安土城に残っていた部将たちに対しては、細か過ぎるほど緻密に人名を記録した太田牛一。
本能寺の変の「明智軍先陣」は極めて重要な情報ですが、一切の記録がありません。
この点は「太田牛一が知らなかった」ことが、理由の第一に挙げられると考えます。
その一方で、この「明智軍先陣武将」は、当時噂などでは広まっていたと考えます。
噂等も記録せず、「正確な記録」を心がけたのか。
あるいは、「明智軍先陣の武将名」に関心がなかったのか。
とにかく、明智軍は京都に侵攻し、「後には引けない状況」となりました。
筆者は、先陣は明智秀満であったと考えます。



明智秀満、明智次右衛門、
藤田伝五、斎藤利三らと相談して・・・
信長公記で、光秀の相談相手筆頭であり、光秀の娘婿であり、知性派武将だった秀満。
「本能寺への先陣」は、情報の秘匿性・信用性・能力を総合すると、秀満しかいないと考えます。
「是非もなし」の信長の一言:信長に殉じた人名の詳細な記録





明智光秀の軍勢は、早くも信長の宿所本能寺を
包囲し、兵は四方から乱入した。
信長公記では、桂川を超えた明智軍が一気に本能寺を包囲、乱入となります。



信長のお小姓衆も、その場限りの喧嘩を下々の者たちが
しているのだと思ったが、



全く
そうではなかった。
ここも比較的有名ですが、信長も小姓も「単なる喧嘩」と考えた、明智軍の動き。



明智勢は鬨の声を上げ、
御殿へ鉄砲を撃ち込んできた。
本能寺を囲んだ明智軍は鬨の声をあげ、攻め込んで来ましたが、「喧嘩」の認識だった信長。



信長が、



さては謀反だな、
誰の仕業か!



と問いただすと、
森長定が、





明智の軍勢と
見受けます。



と答えた。
信長は、



是非もなし。
(やむをえぬ。)



と
一言。
ここで有名な「是非もなし」が登場しますが、異常なまでに簡潔に状況を描写しています。



明智勢は間断なく御殿へ
討ち入ってくる。



表の御堂に詰めていた
御番衆も御殿へ合流し、一団となった。



厩からは矢代勝介・伴太郎左衛門・伴正林・村田吉五が
切り込んで討ち死にした。



このほか、お中間州の藤九郎・藤八・岩・新六・彦一・
弥六・熊・小駒若・虎若・息子小虎若・をはじめとして・・・



二十四人、
厩で討ち死にした。
とにかく人名に対しては、精緻を極める描写である信長公記。
一般的には知られない、無名とも言える人たちに対しても、細かく人名を記録しています。



御殿の中で討ち死にした者は、
森長定・長氏・長隆の兄弟三人・・・
本能寺の御殿内で討ち死にした筆頭は、森長定兄弟です。



小河愛平・高橋虎松・金森義入・菅屋角蔵・魚住勝七・
武田喜太郎・大塚又一郎・狩野又九郎・薄田与五郎・・・



今川孫二郎・落合小八郎・伊藤彦作・久々利亀・種田亀・
山田弥太郎・飯河宮松・祖父江孫・・・



柏原鍋兄弟・一雲斎針阿弥・平尾久助・
大塚孫三・湯浅直宗・小倉松寿。
更に更に細かな人名が続きますが、気になる名前の人が何名かいます。
ここで、「今川孫二郎」なる人物がいますが、ひょっとしたら駿河の今川家の流れかも知れません。


桶狭間の戦いで、全国的に著名であった今川義元を討ち取って、戦国の世にデビューした信長。
後の「第六天魔王」信長のイメージでは、晒し首にでもしそうですが、実態は全く異なりました。



義元の首を持たせて
駿河へ送り返した・・・



これには十人の
僧を選んで従わせた・・・



清洲から二十町南、
須賀口の熱田に通じる街道に・・・



ここで供養のために千部経を
読経させ、大きな卒塔婆を立てた・・・
信長公記は、義元を丁重に葬った信長の行為が詳細に記録しています。
「桶狭間」直後の、信長の動きを上記リンクでご紹介しています。
この流れからすると、当時の「貴種」であった今川家の残党を、信長は厚遇した可能性もあると考えます。
「今川孫二郎」に関しては、筆者の憶測に過ぎません。
とにかく、信長公記には、「本能寺」で最後まで奮戦した人々をほぼ全て記録しました。
最後まで信長に付き従った小姓衆・中間衆たち。
それは、「信長への忠誠の証」であり、信長に大いなる人望があったことを示しています。


