前回は「「手を尽くして家康接待」命じた信長〜見えた「織田と徳川の天下」・「織田家総出」の家康出迎え・織田信忠が家康訪問〜」の話でした。
高松城水攻めの真偽性:「水没」ではなく「籠城軍戦意低下」目的

織田家総出の「大接待」を受けた徳川家康。
| 名前 | 立場 | 家康接待時の居場所 |
| 織田信忠 | 織田家後継者 | 美濃・近江 |
| 柴田勝家 | 北陸方面司令官 | 越中 |
| 滝川一益 | 関東方面司令官 | 上野 |
| 明智光秀 | 近畿方面司令官 | 京 |
| 丹羽長秀 | 安土城築城総奉行 | 近江 |
| 羽柴秀吉 | 中国方面司令官 | 備中 |
織田家の後継者であった織田信忠までもが、わざわざ家康を出迎えました。

信長公記光秀は、京都・堺で珍しい食料を
調達し、大変気を張って接待した。



十五日から十七日まで
三日間に及んだ。
最後に登場した明智光秀は、5月15日から17日まで家康を思い切り接待しました。
そして、話は、中国方面司令官・秀吉に飛びます。





羽柴秀吉は、中国筋
備中へ出陣した。



宿面塚の城は難なく攻め寄せて
攻略し、多くの敵を討ち取った。



ついで、隣のえつたの城へ
攻め寄せたところ、敵は、降参して退去し・・・



高松の城へ合流して
立て籠もった。



そこで秀吉は、
また高松城へ攻め寄せた。
「桶狭間」では、様々な軍勢の数などを詳細に明記していた信長公記著作者・太田牛一。
ここでは、秀吉がどの程度の人数を率いて攻め込んだか、の数字が全く記載ありません。
一般的な解釈では、羽柴秀吉率いる軍勢は2万人程度だったと思われます。



地勢を見て判断し、くもつ川・えつた川
という二つの川を堰止めて・・・



水を溢れさせ、水攻めにする
ことにした。
有名な羽柴秀吉の「高松城水攻め」であり、牛一は河川名を詳細に記載しています。



高松城は
水攻めじゃ!
この「高松城水攻め」に関しては諸説あり、その真偽性が指摘されています。
確かに、現実的にいかに盆地とは言え、ある範囲の地形を「水没させる」のは極めて困難です。
「現代の土木工事でも不可能」と指摘する人もいます。
筆者は、「大掛かりな伝説的水攻め」ではなく、「高松城に打撃を与える程度の水攻め」と考えます。
「水没」とまで行かなくても、高松城周囲を水浸しにし、戦意を落とすことが目的だったと考えます。
大軍に囲まれて、周囲が水浸しになれば、高松城の籠城軍は大いに戦意が落ちたでしょう。
「九州まで一気に平定」目論んだ信長:近畿の有力家臣まとめて出陣





安芸から毛利輝元・吉川元春・
小早川隆景が軍勢を率いて駆けつけ・・・



秀吉の軍勢と
退陣した。



我が毛利家の
危機存亡の時!



当主の私自身が
援軍に出向こう!
| 名前 | 生年 |
| 吉川元春 | 1530年 |
| 小早川隆景 | 1533年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
| 毛利輝元 | 1553年 |
毛利家の前線を突破され続けていた危急存亡の時に、当主・毛利輝元が出陣しました。
毛利輝元は、毛利元就の孫であり、本来は長男・隆元が毛利家を継いでいたはずでした。
ところが、毛利隆元が早逝してしまいました。
そこで、孫・輝元を次男・元春、三男・隆景が支える体制だった毛利。
当時、織田家以外の最大勢力だった毛利家は、120万石ほどの領土を有していました。
この時点で、羽柴軍に前線を次々奪われていましたが、石見銀山もあり、財政豊かだった毛利家。
優に3万人は動員可能であり、おそらく、3万5,000名〜4万名ほど動員して乗り込んできたでしょう。



信長は
これらの情勢を聞いて、



今、安芸勢と間近く接した
ことは天の与えた好機である。



自ら出陣して、
中国の歴々を討ち果たし・・・



九州まで一気に
平定してしまおう!



と、
決心した。
そして、信長が備中方面へ向かうことになりますが、信長公記では「信長自身の判断」としています。
この「信長出陣」に関しては、



信長様!
援軍を差し向けて下され!
「羽柴秀吉が信長に援軍を懇請した」説が有力であり、これを軸に展開するストーリーが多いです。
最も信頼性が高い信長公記において、信長自身が「天の与えた好機」と言っている点が重要です。
さらに、「秀吉の要請」に基づく話では、あくまで「毛利討滅」である傾向があります。
ここで信長が、「九州まで一気に平定」を目論んでいた点は、極めて重要です。
おそらく、長年の宿敵・武田家を討滅した信長は、大いに勇んでいたのでしょう。



堀秀政を使者として秀吉のもとへ
派遣し、種々の指示を伝えた。



明智光秀・細川忠興・池田恒興・塩河吉大夫・
高山右近・中川清秀を先陣として・・・



出陣するよう命じ、
ただちにそれぞれ帰国の許可を与えた。
続く信長公記の記述は、極めて合理的で整合性が高いと判断します。
明智・細川・池田・高山・中川らの、近畿周辺で、大敵に当たっていなかった家臣を選抜した信長。
いわば「手が空いていた近畿有力家臣」に対し、まとめて出陣を命令しました。
ここで、塩河吉大夫という聞きなれない人物が登場しますが、摂津付近の小大名と考えます。
光秀は別格として、それぞれ10万石以上はある家臣団に一気に出陣命じた信長。
信長は自ら出陣して、一気に毛利を倒し、九州まで駆けることを目論んでいました。

