前回は「「九州まで一気に平定」目論んだ信長〜近畿の有力家臣まとめて出陣・高松城水攻めの真偽性・「水没」ではなく「籠城軍戦意低下」目的〜」の話でした。
単なる虚説の信長「光秀叩き・侮辱」:粛々と天下目指していた信長

織田信長今、安芸勢と間近く接した
ことは天の与えた好機である。



自ら出陣して、
中国の歴々を討ち果たし・・・



九州まで一気に
平定してしまおう!


信長公記には、1582年5月の信長の「毛利討滅令」を「自ら決断」と明記しています。



明智光秀・細川忠興・池田恒興・塩河吉大夫・
高山右近・中川清秀を先陣として・・・



出陣するよう命じ、
ただちにそれぞれ帰国の許可を与えた。



五月十七日、明智光秀は安土から
坂本に帰城し・・・



その他の面々も同様に国元へ帰って、
出陣の用意をした。
ここで、「光秀の家康接待の失態に激怒した信長が、光秀を叩いた」説がよく言われます。
信長公記には、そうした記述が一切ありません。
この「信長が光秀を叩いた」のは、公衆の面前ではなく「二人きり」の説もあります。
そもそもが、「将軍・足利義昭側近の下っ端」だった明智光秀。
信長が上洛した際には、「将軍家と織田家を繋ぐ人物」として重要な役割を果たしていました。
信長の「将軍奉戴入京」に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
信長による「光秀叩き・侮辱」に関しては、いかにも傲岸不遜で天をも恐れぬ信長らしいです。
「信長と光秀二人きり」ならば、他に知る人はいませんが、信長の小姓たちは知り得る立場でした。
「光秀叩き・侮辱」が実話であったならば、そうした噂が広まった事実を太田牛一は記録したでしょう。
ところが、信長公記には、そうした噂等も含めて、「光秀叩き・侮辱」を想起させる記述はありません。
そして、徳川家康に対して非常に気を遣っていた信長。
| 名前 | 生年(諸説あり) |
| 織田信長 | 1534年 |
| 柴田勝家 | 1522年 |
| 滝川一益 | 1525年 |
| 明智光秀 | 1528年 |
| 丹羽長秀 | 1535年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
| 織田信忠 | 1557年 |
信長が、9歳年上の宿老・滝川一益に「配慮した」説もあり、信長はきちんと気遣う人物でした。
これらのことを合わせて考えると、無用でしかなかった「光秀叩き・侮辱」は「なかった」と考えます。
そして、信長公記には、



光秀は、京都・堺で珍しい食料を
調達し、大変気を張って接待した。



十五日から十七日まで
三日間に及んだ。
このように記載あり、ちょうど十七日に光秀が坂本に帰城している点も、極めて整合性が高いです。
実情は、「光秀叩き・侮辱」など一切なく、単なる通説・虚説と考えます。
むしろ、信長は、粛々と天下を目指していたのでしょう。
「見苦しい」出来の能に激怒:家康と徳川家臣団への大いなる配慮





信長は、



五月十九日に、安土山の惣見寺で、
幸若大夫に舞を舞わせ・・・



次の日は、四座の能では
珍しくないので、丹波猿楽の梅若大夫に能をさせ・・・



家康と彼が召し連れて来た人々に、
このたびの道中の苦労を忘れてもらうために見物させよう。



と
命じた。
ここで、信長は「秀吉援軍+毛利討滅」の大出陣を前にして、またも家康に大きな配慮を見せました。
家康だけではなく、家康と一緒に来ていた徳川家臣団に対する配慮まで見せた信長。



当日、桟敷の内には、
近衛前久、信長、家康・・・



穴山梅雪、楠長韻・長雲、
松井友閑、武井夕庵・・・



土間には、お小姓衆・お馬廻り衆・お年寄り衆と
家康の家臣たちが座った。
信長と近臣総出で、家康と徳川家臣団をもてなそうとした信長。
ここで、太田牛一が、信長の前に近衛前久を記載している点が重要です。
この年の二月に太政大臣に就任し、位人臣を極めた近衛前久。
幕府を開設出来る征夷大将軍も重要な朝廷の重臣でしたが、太政大臣は隔絶した存在でした。
それ故に、主人であり信長公記の主人公である信長よりも、近衛前久を先に書いた牛一。
これは、牛一なりの当時の「朝廷の強い立場」の解釈と、「朝廷の秩序への配慮」が見て取れます。



初めの舞は「大織冠」、
二番目は「田歌」。



舞はよくできて、信長の機嫌は
たいへん良かった。



能は翌日演じさせるとの指示であったが、
まだ日が高いうちに舞が終わったので・・・



この日、梅若大夫が
能を演じた。



ところが、能は不出来で見苦しかったので、
信長は大変立腹して梅若大夫をひどく叱責した。



幸若大夫の楽屋へ菅屋長頼・長谷川秀一の
二人を使いに出し・・・



能の後に舞を舞うのは本式ではないが、
ご所望であるので、もう一番舞うように。



と意向を
伝えさせた。



そこで、幸若大夫は
「和田酒盛」を舞った。



これまた優れた出来で、
信長の機嫌は直った。
舞は上出来であったものの、能は「見苦しい」ほど不出来であり、



おのれ・・・徳川殿に
せっかくの機会を作ったのに・・・
そもそも、「敦盛」などの舞を自分自身が舞うことが出来る信長。
舞・能に対しては、当時、第一人者の見識を持っていました。
ただ、これに関しては、「時間が余ったから急遽演じることを命じられた」梅若大夫も辛い状況でした。
おそらく、「翌日の準備」をしていた梅若は、急遽能を演じさせられ、失態を演じてしまいました。
信長は「急遽である準備不足」程度ならば、見逃したでしょう。
「準備不足」を上回り「見苦しい」出来に、大いに立腹した信長。
ここにも、信長の「家康と徳川家臣団に対する大いなる気遣い」が見て取れます。
まもなく確実に「天下人」となり君臨する予定だった織田信長は、周囲に多大なる気遣いを見せていました。
この点からも、「光秀叩き・侮辱」は、「なかった」と筆者は考えます。


