前回は「「将軍奉戴」引き受けた「勇敢で剛毅な」信長〜峻拒した朝倉家・「まずは守護・守護代」だった覚慶の発想・「格下」の織田家〜」の話でした。
戦国の世に極大激震もたらした信長「将軍奉戴入京」

織田信長将軍となる
足利義昭様を奉じて京へ!
戦国時代に、極大の激震をもたらした1568年の織田信長率いる大軍勢の入京。
| 守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
| 守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家・大内家・六角家 |
| 守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家 |
| 国衆(地侍) | 三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家) |
当時の戦国大名の家格では、織田家は「明らかに下の方」であり「守護代の下」でした。
この点では、毛利家も同様でしたが、毛利家の始祖である毛利元就は、「超大先輩」でした。
| 名前 | 生年 |
| 毛利元就 | 1497年 |
| 北条氏康 | 1515年 |
| 今川義元 | 1519年 |
| 武田信玄 | 1521年 |
| 長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 島津義弘 | 1535年 |
| 羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
1568年当時、すでに48歳(数え年、以下同)だった武田信玄。
毛利元就は、武田信玄より24歳年上、織田信長より36歳年上で、1568年は72歳でした。
この点では、守護・武田家、守護代・上杉家、ベテラン土豪・毛利家の格下だった織田家。
この織田家の「将軍家奉戴入京」によって、戦国時代は新たな時代を迎えました。


この「信長入京前後の様子」を、ルイス・フロイスは「日本史」に描写しています。



六角殿は、一つには信長に
対する恐怖から・・・



その通過を拒もうと
考えた・・・





織田を通過させる
わけにはいかぬわ!
近江守護であり、南近江に広大で、着実な勢力を築いていた六角義賢(承禎)が立ちはだかりました。
当時の六角家は、40万石ほどあり、地元密着型の大名であったため、なかなか強力な存在でした。
猛烈な勢いで京復興へ:一気に「六角駆逐」と近畿圏大名の降伏


この後に、信長が安土城を築く周辺一帯を領有していた六角義賢。



そこで信長は、彼の二カ国及び
隣接の地方から大軍勢を駆り集め・・・



恐れることなく近江国に
侵入し・・・



国主(六角義賢)がその二人の成人した
息子たちと共にいた・・・



観音寺城を
直接に攻撃した・・・



同城は、人間の考えでは
陥落しそうに思えなかったが・・・



彼は武力によって侵入し、
これを征服した・・・
本来ならば、「近江に貼られた本城+支城ネットワーク」と戦いを繰り広げるはずだった近江の戦い。



六角の本城・観音寺城を
狙え!
フロイスは、一目散に本城を目指した信長に対して、「陥落しそうに思えなかった」と述べています。
それほど「奇抜だった」のが、闘将・信長の大戦略でした。



国主は二人の息子たちと
共に遁走し・・・



信長は城を強襲した際に
千五百人以上を失ったが・・・



同国の大部分の
支配者となるに至った・・・
観音寺城強襲によって、千五百名もの死者を出した織田軍。
当時の合戦における死者の規模としては、かなり大きく、大変な損失を出しました。
それでも、短期間に六角勢を駆逐した、信長の大戦略は極めて冴えていました。



この突然の決断と勇敢な行為は、
山城、津の国、河内、和泉、大和、丹波の諸国に・・・



大いなる驚嘆を呼び起こし、
これらの諸国は、その勝利の容易さ・・・



また、彼が公方様を復位させる
ために示した来た・・・



権勢と豪華さを目撃して、
彼に降伏した・・・
あまりに凄まじい信長率いる織田軍の進撃に、近畿周辺の諸大名は「驚いて、降伏した」ようです。



織田軍の勢いは、
凄まじい・・・
この「近畿一帯を一気に降伏させた」効果があっただけでも、信長の近江六角戦の効果は絶大でした。



かくて彼は大いなる勝利を
挙げて入京し・・・



新しい公方様を
その位に就任せしめた・・・





遂に
将軍家になった!
そして、あっという間に三好一党も駆逐して、覚慶を第十五代足利将軍 足利義昭にした信長。



彼は五万人以上を率いてきたので、
公方様、並びに全ての家臣を・・・



都内外の寺院に宿泊せしめ、公方様を、
先にその兄が殺された同じ場所で再任し・・・



かつ住まわせようと
決意した・・・
覚慶の兄・義輝が住み、殺害された二条御所は、当時すでに荒廃していました。



だが、そこには住むべき家が
なかったので・・・



彼は二つの寺院を接収し、
ひとまずそこに彼を住まわすことにした・・・



彼は二つの寺院を接収し、
ひとまず、そこに彼を住まわすことにした・・・



そして、彼は公方様のために
新たな城とは甚だ広大で華麗な建築の宮殿を造った・・・



彼はそのために三街の面積の地所を収用し、
建築作業に従事するために・・・



日本の諸侯及び全ての貴族が集まったので、
通常二万五千人が働き・・・



少ない時でも一万五千人を
数えたという・・・
足利義昭が将軍となり、京の地において、きちんとした住まいと一定の政治機構を作ろうとした信長。
ここで、当時の人口を考えると「通常二万五千、少なくても一万五千」が建築したのは驚きです。
現代でも、これほどの大人数が建築工事に従事すれば、恐ろしい勢いで工事が進むでしょう。



早くしろ!
早く、公方様の住まいを作るのだ!
このような信長の声が聞こえてきそうなほど、凄まじい勢いで京は復興に向かいました。

