徳川家康を「家康公」と呼んだ信長〜家康と徳川家臣団への熱い思い「世間の風評に配慮」した信長・三職推任問題と民衆との和〜|本能寺の変5・信長公記12

前回は「単なる虚説の信長「光秀叩き・侮辱」〜粛々と天下目指していた信長・「見苦しい」出来の能に激怒・家康と徳川家臣団への大いなる配慮〜」の話でした。

目次

「世間の風評に配慮」した信長:三職推任問題と民衆との和

新歴史紀行
安土城天主 信長の館(新歴史紀行)
信長公記

ところが、能は不出来で見苦しかったので、
信長は大変立腹して梅若大夫をひどく叱責した。

信長公記

幸若大夫の楽屋へ菅屋長頼・長谷川秀一の
二人を使いに出し・・・

長谷川秀一

能の後に舞を舞うのは本式ではないが、
ご所望であるので、もう一番舞うように。

信長公記

と意向を
伝えさせた。

信長公記

そこで、幸若大夫は
「和田酒盛」を舞った。

信長公記

これまた優れた出来で、
信長の機嫌は直った。

とにかく、不出来の梅若の「お口直し」に幸若大夫が、もう一度舞って、直った信長の機嫌、

信長公記

信長は、森長定を使いに出して、
幸若大夫を召し出し、褒美として黄金十枚を賜った。

信長公記

幸若大夫は面目をほどこし、
外聞もよく、ありがたく頂戴した。

信長公記

次に、梅若大夫が能を不出来に演じたことは
けしからぬと思ったが・・・

信長公記

黄金を出し惜しみしたように
世間で取り沙汰されるかも知れぬ、と考えて・・・

信長公記

以上の趣旨をしかと伝えたうえで、
梅若大夫にも金子十枚を賜った。

信長公記

過分なことで、
ありがたいことであった。

この一連の「不出来の梅若」にも、「世間の風評を気にして」同数の黄金十枚を当てた信長。

この記述は、極めて重要であると考えます。

信長は、「風評に配慮」して、「民衆との和」を求めていました。

この頃は、「三職推任問題」もあり、信長が「いかようにも所望することが出来た」立場とされています。

実は、この頃、一度は就任した右大臣を辞任して、無官だった織田信長。

「無官なのに覇者」という、異常な事態が発生していました。

これに対して、朝廷が信長に「望む官位・職を選んでもらう」姿勢に出た説があります。

具体的には「「征夷大将軍、太政大臣、関白いずれか」でした。

これらの「三つの職」のどれでも「朝廷が推任する」ので、「三職推任問題」と呼ばれます。

「三職推任問題」に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

そして、「朝廷を軽視していた」説もあるほど、天下を圧する立場であった信長。

この「傲岸不遜な信長像」に対して、「世間の風評に配慮した」信長像は、大きなズレがあります。

実態として、信長は朝廷とも世間とも「上手くやる」ことを模索していたのでしょう。

徳川家康を「家康公」と呼んだ信長:家康と徳川家臣団への熱い思い

新歴史紀行
戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
信長公記

五月二十日、丹羽長秀・堀秀政・長谷川秀一・
菅屋長頼の四人に、徳川家康接待の用意を命じた。

信長公記

座敷は、
江雲寺御殿。

信長公記

家康・梅雪・石川数正・酒井忠次、
このほか家康の家老衆にも食事を出し・・・

信長公記

忝ないことには、信長自身も
膳を並べて一緒に食事をし・・・

信長公記

敬意を表すること
ひとかたならぬ様子であった。

ここで、当時の徳川家の「両翼」とも言われていた石川数正と酒井忠次の名前が出てきます。

後に豊臣秀吉の時代に、家康を裏切った石川数正は、当時「徳川家No.2」でした。

石川数正が築いた松本城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

新歴史紀行
安土城天主 信長の館(新歴史紀行)
信長公記

食事が終わると、家康と供の人々を
上下残らず安土城に招き・・・

信長公記

帷子を贈って、
歓待をしたことは言うまでもない。

とにかく、家康と徳川家臣団に異常なまでに気を遣い続けていた信長。

「戦国最大の覇王」である織田信長は、とにかく「強い」存在であり「超越した」存在です。

それ故に、後世の視点から見れば、極めて強気で「上から目線」であったようなイメージです。

それに対して、安土では、家康のみならず徳川家臣団全員に対して、丁重な姿勢でもてなした信長。

ここからは、まもなく「天下の主人」となり、日本全国を治めるはずだった信長の思いが見えます。

「敵対するものは全て討滅」してきた信長。

そして、これからも毛利含めて、「敵対するものは全て討滅して天下統一」目指していた信長。

それに対して、「ずっと20年ほど一緒に戦い続けてくれた」家康と徳川家臣団。

信長は、家康と徳川家臣団に対しては、心から熱い気持ちを持っていたのでしょう。

信長公記

五月二十一日、
家康一行は上洛した。

信長公記

信長は、

織田信長

このたびは、
京都・大坂・奈良・堺を・・・

織田信長

のんびりと御見物なさると
よいでしょう。

信長公記

と言って、案内者として、
長谷川秀一を同行させた。

信長公記

織田信澄・丹羽長秀の
二人には、

織田信長

大坂で
家康公の接待をせよ!

信長公記

と、
命じた。

信長公記

二人は大坂へ
出向いた。

ここで、信長が家康を「家康公」と呼んでいる点は注目です。

果たして、信長が、「身内」である織田信澄と「身内同然」の重臣である丹羽長秀に対して、

織田信長

大坂で
家康公の接待をせよ!

本当に、このように言ったのか?

あるいは、太田牛一の脚色なのか?

このあたりは不明ですが、信長の家康に対する「丁重過ぎる姿勢」からは、この気持ちも窺えます。

そして、いよいよ「本能寺」の日に近づいてゆきます。

新歴史紀行

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