前回は「ただ一つの華麗な「水城+平山城」の宇和島城〜明智光秀が生み出した「水城」という城郭建築形式・華麗な坂本城・巨大な存在感放った琵琶湖と水城〜」の話でした。
山全体を「城塞化」した宇和島城:戦国から江戸期の「高さの感覚」

「平山城+水城」と称される宇和島城。
標高74mの山の上にある天守閣に登るまで、結構多数の石段を上る必要があります。
上の写真の通り、山の中腹には多数の石垣が建築されており、山全体が城となっています。

安土城址を訪問した時も、所々石垣が見受けられましたが、石段を作るための石垣の印象が強いです。
安土城は焼失してしまったので、どの程度遺構が残っているのか不明です。
そのため、現存している石垣が当時の姿をどの程度残しているか、は諸説あります。
おそらく、石垣は「ほぼ当時の姿」を残していると思われます。
この観点から考えると、宇和島城の「山全体の城塞化」が際立っているのが分かります。

そして、石段を上った途中から見下ろしたのが上の写真です。
地上は遥か下の方であり、平山城ながら「ほぼ山城」であると考えます。
現代は超高層建築があり、「高さ」に対しては、戦国期〜江戸期の人々と感覚が全く異なります。

まさに山城の典型である「岐阜城」でも、標高は329mです。
東京スカイツリーは高さが634mであり、第二展望台は高さ450mです。
この「高さの感覚」を考えると、戦国から江戸期に築城した宇和島城は「かなり高い」と考えます。
小高い山の湧水を守る廓:籠城戦で最重要の「水の確保」

どんどん上ってゆくと、少し平地がありました。
標識が建っており、何らかの機能・施設がありそうです。

近づいてみると、大きな井戸のような施設がありました。
正方形に近いグリッド形状の大きな蓋のようなものがあります。

これは「井戸丸跡」と呼ばれ、小さな「水の手を守る」廓です。
地下に流れる水道から湧水させる井戸であり、平山城である宇和島城には必須の施設となります。
「湧水させる」と記載がありますが、高い位置で「湧水させる」のは大変なことです。
現代ならば、ポンプ等で「無理やり湧水させる」ことが可能です。
当時は、ポンプ等がないので、おそらく自然の力で「湧水する」条件があったと思われます。

瀬戸内海付近にある宇和島城は、水城であり、「海が極めて近い」特殊な条件の城です。
「海が近い」のは、湿った空気となるので、比較的降雨量が多い傾向があります。
そして、戦国期〜江戸期も、夏には台風の通り道であったと思われる伊予の宇和島城。
比較的、「水分補給には恵まれた立地」でしたが、籠城戦では「水は最重要」です。
この湧水の施設を守る廓は、天守閣と同程度に重要であったと思われます。

藤堂高虎ほう・・・
平山城であるが湧水があるのか・・・
現在の宇和島城の基本骨格の板島丸串城を、1596年に築城開始した「築城の巨頭」藤堂高虎。
・加藤清正
・藤堂高虎
筆者は、加藤清正と藤堂高虎を「築城二巨頭」と考えます。
この「小高い山に湧水が確保されたいる」条件こそ、藤堂高虎が、重視した要素と考えます。



これならば、万一籠城戦の時も、
長期間耐えられるのう・・・
こう睨んだ高虎は、勇んで当時の板島丸串城=宇和島城築城に向かったでしょう。


