前回は「江戸でさらに大きく成長した村田蔵六〜箕作秋坪と蕃書調所・「長州人」から「宇和島人」となり得た宝物・村田の超合理的思考〜」の話でした。

蘭学の力の集結図った阿部正弘率いる幕府:蕃書調所から東京大学へ

宇和島藩主・伊達宗城の参勤交代に従って、初めて江戸の地を踏んだ村田蔵六。
箕作秋坪おお、村田殿、
お久しゅう・・・



箕作殿、
お久しぶりです!



最近、幕府では
蕃書調所という機関を作りました・・・



私は、そこで
蘭学の教授をしています・・・



箕作殿が
幕府の蘭学の中枢になったのですな・・・



貴殿の学力ならば、
幕府の蘭学は更に大いに栄えそうですな・・・
1856年に徳川幕府は蘭学研究機関・蕃書調所を設立しました。
蕃書調所は、後に東京大学に繋がってゆきます。



いやいや・・・、だが、確かに
幕府は大いに蘭学に舵を切っている
1825年の村田は、1826年生まれの箕作と年齢が近く、同じ学者肌だったので、気が合いました。



幕府の総力を上げて、
蘭学の書籍や実地研修を進めている・・・



この勢いならば、諸藩に先駆けて、
幕府が圧倒的な力を持ちそうですな・・・
蔵六が江戸に向かった1857年は、後世の視点では「幕末の頃」です。
その一方で、徳川幕府の力はバリバリであり、誰が見ても「幕府は巨大な存在」でした。





老中の阿部正弘殿は、
実に開明的な方でな・・・



幕府の内部は
大きな改革が進んでいる・・・



なるほど・・・
ならば、蘭学はいよいよ幕府中心になりますか・・・
「優柔不断」などの声もありますが、確かに、老中・阿部正弘は開明的な人物でした。



私が老中となり、
徳川を引っ張ろう・・・
1843年に25歳の若さで老中となった阿部正弘は、幕閣でも評判が極めて高い人物でした。





ま、この勝も
阿部様に引き立てられたのだ・・・
勝海舟を見出したのも阿部正弘であり、阿部がいなかったら、勝海舟は歴史に登場しなかったでしょう。
勝海舟と阿部正弘に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
ただ、徳川幕府にとって極めて残念なことに、蔵六が江戸にいた1857年に、



むむむ・・・
無念だ・・・
老中・阿部正弘は病死してしまいました。



阿部様が亡くなって
しまうとは・・・
この「阿部病死」は、「幕府の蘭学派」にとって痛恨の打撃でした。
東京大学准教授となった村田蔵六:圧倒的存在だった幕府の中央機関





な、なに・・・
宇和島藩に村田という優れた蘭学者がいると・・・
現在の東京大学につながる蕃書調所に対して、幕府は巨額の予算をつけていました。
そして、蕃書調所で教授しうる人物を緒方から集めていた幕府。
徳川幕府は各地に隠密を放ち、情報収集に努めていました。
更に、「入鉄砲に出女」と呼ばれたように、地元・江戸の参勤交代には目を光らせていた幕府。
当時、「適塾で有数の優れた蘭学者であった村田蔵六が、江戸にいる」ことは即座に把握していました。



宇和島藩主・伊達宗城に
伝えよ・・・



その村田という人物を
幕府に出仕させるよう・・・
宇和島藩は10万石の大名であり、一定のレベルの格式を持っていました。
その一方で、当時の徳川幕府はまさに「幕藩体制の頂点に君臨」していました。
幕府は、諸大名に対して「何事も命じることが出来る」立場でした。





村田殿を
幕府に出仕させるのは残念だが・・・



我が宇和島藩にとっては
大変な名誉だ・・・
蔵六が、「幕府の人間」になることに、宇和島藩主・伊達宗城は一定の抵抗を感じたでしょう。
その一方で、幕府には「圧倒的な力」がありましたが、



一度、我が幕府に出仕してもらう
だけであり・・・



もちろん、村田殿が
宇和島の人間であることに、変わりはない・・・
幕府には、宇和島藩に所属していた「蔵六の国籍」までは変更する力がありませんでした。
これが「封建制度の根幹」の一つでした。
諸外国の皇帝や王と比較して、幕府の権限はかなり限定されていました。



村田殿、
蕃書調所の教授手伝として・・・



貴殿に出仕するよう
幕府から要請があった・・・



左様
ですか・・・



うむ・・・
蕃書調所は徳川がその力を入れ込んでいる・・・



貴殿にとっても、
蕃書調所に行くのは、大いなる力になろう・・・



承知致しました。
蕃書調所に向かいます・・・
そして、徳川幕府傘下の蕃書調所に向かった村田蔵六。



おお、貴殿が
村田殿か・・・



蕃書調所の教授手伝として
教授をお願いしたい・・・



承知致しました。
大いに教授しましょう・・・
後に様々な機関と合体して東京大学となる蕃書調所。
その東京大学で、いわば准教授となったのが村田蔵六でした。
村田蔵六が33歳(数え年)の時であり、大人しめの蔵六でしたが、



この私が幕府肝入りの
最高学府で教授手伝か・・・



ここは、大いに教授しながら、
私は更に学ぼう・・・
大いに奮ったことでしょう。
当時の徳川幕府の格式は偉大であり、旗本は諸大名より上の存在でした。
そして、藩校・私塾・寺子屋があったものの、「中央政府=徳川幕府」の機関は別格でした。
この点では、現在の東京大学とは比較にならぬほど権威があった蕃書調所。
村田は更に蘭学の研究を進めながら、ここで様々な人物と知り合います。


