前回は「東京大学准教授となった村田蔵六〜圧倒的存在だった幕府の中央機関・蘭学の力の集結図った阿部正弘率いる幕府・蕃書調所から東京大学へ〜」の話でした。

西洋学問=蘭学を猛推進していた徳川幕府

村田蔵六蕃書調所の教授手伝と
なったのだ!
現代の東京大学につながる、徳川幕府肝入りの「蘭学学問所」であった蕃書調所。
「ガタガタだった」と表現されることが多い1850年代以降の徳川幕府ですが、実は、



とにかく、我が国よりも
学問も技術も大いに進んでいる欧州・・・



その欧州の国々で
最も仲が良いオランダの学問・蘭学を推奨する!
徳川幕府は、長年国交があったオランダの学問・蘭学を正式な学問と指定していました。
そして、徳川幕府は、当時の日本にとって「西洋の学問」である蘭学を猛烈に推進していました。
この点では、「ガタガタだった」わけではなく、徳川幕府は、それなりにきちんとした政府でした。
諸外国と締結した最初の条約=日米和親条約:揺れるオランダの立場





Hello!
Japanのみなさん!



我がUnited Statesと
国交を結びましょう!



そして、我が国と
交易しましょう!
蔵六が蕃書調所教授手伝、現代の東大准教授となった1856年の2年前の1854年には、



まずは我がUnited Statesと
和親条約締結しましょう。
恫喝されて、和親条約を「締結させられて」徳川幕府。
日米和親条約は、日本が諸外国との間で締結した最初の条約となりました。



近々、メリケンから
軍艦を率いた使節が来ますよ・・・



な、なに!!
ふむ〜・・・
実は、オランダ通詞から、「ペリー来航の情報」を事前に得ていた徳川幕府。
そして、「無策のまま」放置していたら、1853年にペリーが軍艦を率いてやってきました。
1853年の時点では、



我が国は、オランダとは
仲良くしていますが、条約は締結していません・・・



ちょっと検討しますので、
お待ちを・・・



OK!
来年また来ますよ!
この時は、異様に簡単に引き下がったペリー。
おそらく、事前から「一度は引き下がる」ことを想定していたのでしょう。



メリケンは遠いから、
来年また船で来るのは大変だろう・・・



「また来る」のは、2年後か
3年後・・・



その間は、「棚上げ」にすることが
出来る・・・
日本政府のお家芸である「棚上げ」は、徳川幕府もまた得意としていました。
ところが、翌1854年2月13日、前回の1853年7月から半年ほどしか経過していないのに、



Hello!
約束通り、また来ましたよ!



ゲッ・・・
本当に「また来た」よ・・・



しかもまだ2月で、
一年後ではなく、半年後・・・
大いに衝撃を受けた徳川幕府に対して、ペリーはさらに「驚き」をもたらしました。



前回は軍艦4隻でしたが、
今回は9隻です!
率いる軍艦の数を2倍以上にして、恫喝してきたペリー。



わ、分かりました・・・
条約を締結しましょう・・・
徳川幕府は、「なし崩し的」に条約を「初めて」締結することになりました。



・・・・・
本来であれば、最初に条約を締結するのは「オランダと」が妥当でした。



United Statesと
条約を締結したなら・・・



我がThe Netherlandとも
条約を締結しましょう!
オランダも続いて、日本と和親条約を締結しましたが、日本におけるオランダの地位は揺れました。
この結果、日本において蘭学の勢いが低下し、明治期はドイツや英国の学問が盛んになります。
村田蔵六が開設した私塾+研究所「鳩居堂」:シーボルト娘・楠本イネの応援


地位が大きく揺らいでしまったオランダ及び蘭学。
蔵六が蕃書調所教授手伝に就任した1856年は、和親条約締結後2年であり、まだ安泰でした。



私は兵学の教授と共に
我が私塾を開きたい!
この頃、村田蔵六は、幕府御家人の屋敷を買取り、「鳩居堂」という私塾・家塾を開きました。
とは言っても、蔵六は忙しいため、



鳩居堂の塾頭は
適塾後輩の太田静馬だ!
後輩を塾頭とし、兵学と医学を講義した、と伝えられています。


ここで、シーボルトの娘・楠本イネが再登場し、鳩居堂に住み込んで、蔵六を助けた、と伝わります。





私も
鳩居堂の運営、手伝います!
鳩居堂開設と言っても、江戸の土地と建物を「買った」点が謎です。
この頃、身分が安定して、それなりの給与を得ていた蔵六。
それでも、塾を開くほどの土地・建物を購入資金をポンとは出せなかったはずです。
おそらく、蔵六は「自らの蘭学研究所」が欲しかったのでしょう。
多数の蘭書・漢訳洋書など、書籍を多数揃えて置いておく場所も重要だったはずです。



蘭学を
研究する自分だけの場が欲しい・・・
そして、当時、宇和島藩籍だった蔵六に対して、藩主・伊達宗城が金銭を援助したのでしょう。





村田殿が研究を続け、
教授する独自の場所を用意しよう・・・
実態は、このような形であったと思われます。
そして、蔵六は、蕃書調所教授手伝と鳩居堂における研究と教授の忙しい日々を送っていました。



日々、この私の
研究も進んでいる・・・
そして、江戸において、蔵六の研究は大きく増進しました。

