前回は「井伊直弼と井伊家の肖像〜徳川四天王と徳川幕府・石田三成の佐和山を任された井伊直政・豊臣家に睨みをきかせた井伊〜」の話でした。

戦国有数の頭脳を持つ男・石田三成の肖像:数字がある不思議な名前

今回は、石田三成を取り上げて考えてみます。
石田三成というと、「戦国有数の頭脳を持つ男」あるいは「豊臣に殉じた義の武将」のイメージです。
幼少の頃は、「佐吉」と呼ばれた石田三成。
石田三成この石田三成は、
近江で誕生したのだ!
そもそも石田「三成」という名前は、不思議な名前です。
| 名前 | 生年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
| 石田三成 | 1560年 |
| 福島正則 | 1561年 |
| 加藤清正 | 1562年 |
| 細川忠興 | 1563年 |
織田信長、羽柴秀吉、徳川家康ら、戦国真っ只中の世代から人世代後の三成たち。
三成と同年代であり、因縁が深い仲となった福島正則、加藤清正らの名前は、比較的分かりやすいです。
それに対して、数字の「三」が「成る」という名前の石田三成。
「数字が名前に含まれている」名前の戦国武将は少ないです。
筆者は、「数字が名前に含まれている」名前の戦国武将がパッと思いつきません。





この細川忠興は、
細川三斎と名乗った!
細川忠興が、本能寺の変後に剃髪して、「細川三斎」と名乗りました。
これは「号」であり、名前とは異なりますが、珍しい「数字を含む」名称です。
考えてみれば、石田「三成」も細川「三斎」も同じ「三」です。
昔から現代にかけて、「一」「二」あるいは「三」は、兄弟の順序を示す意味で使われることがあります。
戦国期に限ると、これらの数字を持つ武将は、なかなか思いつきません。
探せばいそうですが、いわゆる著名な戦国武将ではいなそうです。



この三成、算術が
得意なので「三」を名前に入れたのだ!
おそらく、幼少の頃から算術が得意だった石田三成。
「算術(算数)が得意」だから「三という字」を入れて「成る」という名前にしたかもしれません。
重要な戦国大名の名前:足利将軍家の「義」と偏諱


そもそも、日本における歴史が円熟味を増してきた戦国期は、名前は大事なものでした。



この武田晴信は、
武田家代々の「信」の晴信だ!
| 守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
| 守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家・大内家 |
| 守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家 |
| 国衆(地侍) | 三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・長宗我部家・(豊臣家) |
戦国期において、圧倒的に良い家柄であった武田信玄(晴信)は、「信」の字が大事でした。
晴信の父もまた「信」がある「信虎」という名前でした。


戦国期に「謎の権力の象徴」であった足利家もまた、「義」の字が重要でした。



この足利義昭の
「義」の字は足利将軍のもの・・・



偏諱と言えども、
極めて重要な人物以外にはやれん!
代々将軍となった足利家において、「義」の字が重要であり、「将軍の象徴」でもありました。





この朝倉義景は、
将軍家から「義」の字を頂いた!
守護代の家柄であり、名門であった朝倉義景は「義」の字を将軍から偏諱されました。
朝倉義景に関する話を、上記リンクでご紹介しています。





この長尾景虎は、
足利義輝様から「輝」の字を頂いた!



今日から、長尾「輝虎」と
名乗るのだ!
名前がコロコロ変わった上杉謙信は、若い頃は「長尾景虎」という名前でした。
そして、時の将軍・足利義輝に謁見して、「輝」の字を偏諱・拝領して「輝虎」となりました。
守護代の朝倉家と長尾家は「同格」のはずですが、朝倉家は「義」で長尾家は「輝」でした。
この事実は、朝倉家が「単なる守護代を超えた家柄」であったことを示すと考えます。



我が朝倉家は
単なる守護代ではないのだよ・・・



長尾家などとは
格が違うのだ!
一時は、「天下を狙いうる大名」の一角として、京付近で認識された朝倉家。
越前王であり、日本海から京への流通経路を抑え、海外貿易もしていた朝倉は巨大な存在でした。



この信長の「信」は
織田家代々の重要な名前だ!
信長の「信」の字もまた、織田家代々の「信」であり、信長の父は信秀でした。



信長の織田家などとは
格が全然違う!
織田信長の「信」と朝倉義景の「義」は、全然違う意味を持っていたのでした。
その朝倉義景が、「巨大な誇り」を持っていたことも自然の流れでした。


桶狭間の戦いで信長がデビューした1560年に、誕生した石田三成。



この三成が、
歴史を変えてみせる!
大した家柄に生まれたわけでもない三成は、確かに歴史を変え、歴史に名を刻みました。


