精強な一向一揆を退けた越前王・朝倉義景〜異様に評価が低い朝倉義景・戦国大名「最低レベルの評価」・京と近江の歴史変えた実力〜|朝倉義景1・人物像・エピソード

前回は「織田信長と織田四天王の圧倒的能力〜異質な超強力織田家抜擢軍団・出来星大名だった織田家・強力なパワー有した戦国時代の守護大名〜」の話でした。

新歴史紀行
戦国大名 朝倉義景(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

異様に評価が低い朝倉義景:戦国大名「最低レベルの評価」

New Historilcal Voyage
一乗谷朝倉氏遺跡(新歴史紀行)

今回は、朝倉義景の話です。

朝倉義景を語るの際は、織田信長の勢力拡張時に「滅亡させられた大名」という表現が多いです。

あるいは、「戦国大名の中で最低ランクの大名」という表現も多いでしょう。

いずれにしても、朝倉義景を語る時、高い評価やポジティブな評価は少ないです。

「無能」「暗愚」「愚か者」という評価が多い朝倉義景は、ゲームにおいても低い評価です。

武将名政治力戦闘力魅力
織田信長958898
武田信玄929696
足利義昭762496
浅井長政658283
朝倉義景463981
主な戦国大名の能力(信長の野望 武将風雲録:1570年頃)

上の表は信長の野望・武将風雲録の「シナリオ2・信長包囲網」の、朝倉義景を取り巻く大名の能力です。

この表を見ても分かるように、戦闘力・政治力ともに最低ランクです。

新歴史紀行
第十五代足利将軍 足利義昭(Wikipedia)
足利義昭

自慢ではないが、
私は結構政治的能力が高い・・・

信長の野望などのゲームにおいて、政治力が割と高めに設定されることが多い足利義昭。

策謀に富んだ足利義昭の場合は、政治力というよりも「策謀力」による加点が大きいと思われます。

朝倉義景

私の政治力は
46なのか・・・

ゲームをプレイした方なら分かりますが、内政や外交で重要な政治力が46では、出番はありません。

さらに、武将風雲録は「大名・城主の政治力で行動力が決定」するので、政治力46は極めて厳しいです。

信長の野望シリーズは、様々な大名でプレイできるのが醍醐味で、

男子中学生

朝倉義景で
プレイして、信長を倒してみるか・・・

上記の「信長包囲網」で、「朝倉家で織田家を倒す」のは難易度が高いので面白いですが、

男子中学生

義景がいると、
制約が強すぎて邪魔・・・

男子中学生

義景は突撃して戦死してもらって、
後継者に、ほどほどの政治力の武将を・・・

朝倉義景を出陣させて「わざと討ち死にさせて、後継大名で頑張る」ことを考えたくなるほどでした。

それほど低い評価であり、大名の中でも「取り柄がない」扱いの朝倉義景。

精強な一向一揆を退けた越前王・朝倉義景:京と近江の歴史変えた実力

New Historilcal Voyage
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館(新歴史紀行)

そして、肥沃の土地・越前を治め、一向一揆とも死闘を繰り広げた朝倉家の当主だった義景。

朝倉義景

隣国の加賀では、
一向一揆が跳梁している・・・

新歴史紀行
1556-61年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

当時は、加賀国主であった冨樫氏が一向一揆に潰されてしまい、加賀は「一揆の国」でした。

当然、意気揚々としていた一揆勢は、周囲に攻め込み、

一向一揆

一向宗の
時代だ!

一向一揆

親鸞様の教えに
従い、世界に一向宗を広める!

「一揆の国」の拡大を目論んだ一揆勢。

当然、「加賀南側の隣国」であった越前にも一揆勢は度々侵攻を繰り返し、

朝倉義景

一向一揆如きに、
我が朝倉家が押されてたまるか!

朝倉義景

おいっ!
一揆どもを討滅せよ!

朝倉家重臣A

ははっ!
直ちに出陣します!

当時の一向一揆の勢いは凄まじく、

一向一揆

一向宗の教えに従って
死ねば、極楽浄土へ!

「一揆で戦死すれば極楽浄土」を本気で信じている宗徒の士気は極めて高く、強力でした。

朝倉義景

ええい!
我が朝倉は押し返してやるのだ!

越前勢が強力であったこともありましたが、精強な一揆勢を加賀に押し返し、

朝倉義景

我が越前に一揆の拠点など
一才持たせんわ!

一向一揆を押し返すことに成功した朝倉義景。

一向一揆

なんとか、越前を
突破して中央に向かいたかったが・・・

新歴史紀行
京・山城中心の日本(新歴史紀行)

当時は、京・山城が中心であり、越前は「上方(かみがた)の端」に位置しました。

一向一揆勢が「京・山城目指して南下した」のは当然でありましたが、

一向一揆

ちっ、
越前の朝倉は強すぎるな・・・

一向一揆

仕方ないから、南下は諦めて、
東へゆこう・・・

南下に失敗し、南を塞がれた一揆勢は東に向かい、越中へ侵攻しました。

v
戦国大名 上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
上杉謙信

一向一揆
めが!

そして、東に進んだ一向一揆は、後に、越後から侵攻してきた上杉謙信と正面衝突することになりました。

一向一揆

東に進んだら、
上杉謙信と衝突だ!

もし、朝倉家が一向一揆に敗れていたら、一向一揆は越前の南に広がっていたでしょう。

そして、「一向一揆と上杉謙信の死闘」も大きく変わっていたでしょう。

朝倉家が一向一揆を追い返さなければ、

一向一揆(架空)

越前から近江に
進出だ!

越前から近江、あるいは京の方へ一向一揆の勢力が伸びていた可能性も否定できません。

この意味では、義景にとっては「自国・越前の防衛戦争」だった一向一揆との死闘は、

朝倉義景

越前を守り、
近江・京を一揆から守った!

当時の日本の中心地を「一向一揆から守った」ことに繋がりました。

朝倉義景

私は越前の王であり、
若狭をも支配下に入れたのだ!

越前のみならず、若狭を手に入れ、さらに北近江の浅井家を支配下に入れていた朝倉家。

朝倉義景は、少なくとも一定の能力を持っていた大名と言えるでしょう。

次回も、無能・弱将と評価される朝倉義景の実像を追いかけてゆきたいと思います。

新歴史紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次