前回は「戦国有数の頭脳を持つ男・石田三成の肖像〜数字がある不思議な名前・重要な戦国大名の名前・足利将軍家の「義」と偏諱〜」の話でした。

守護と守護代の力が強く残存した戦国初期から中期:伊勢から北条へ

戦国随一の政治力を有する、武将の一人と考えられる石田三成。
石田三成我が石田家は、
近江北部の石田村に生まれたのだ・・・
| 名前 | 生年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
| 石田三成 | 1560年 |
| 福島正則 | 1561年 |
| 加藤清正 | 1562年 |
| 細川忠興 | 1563年 |
石田三成は、1560年に生誕しました。


桶狭間の戦いで信長がデビューした1560年に誕生し、まさに時代が大きく変化した頃でした。
戦国時代が「いつから始まったか?」は諸説あり、様々な解釈が成立します。





この伊勢新九郎、
小田原城を奪取せり!
有力な説は、伊勢新九郎(北条早雲)が小田原城を奪取した1495年頃が「戦国スタート」です。
つまり、1500年頃から、「下剋上」と呼ばれる戦国時代が開始していましたが、



まだまだ、守護や
守護代の力は強い・・・
この頃は、鎌倉時代以降続いていた「守護と守護代」の影響力が、強く残存していました。
伊勢宗瑞(新九郎)から、二代目・北条氏綱に至る話を、上記リンクでご紹介しています。
政所執事の伊勢家の庶流と目される「伊勢」氏は、関東で勢力を張るにつれ、



我らの
名前を「北条」とする!
伊勢から「北条」に名前を変えました。
この「北条」は、鎌倉幕府執権であった「北条家」にあやかったと思われます。



本当は守護の名前が
よかったのだが・・・
守護:各国の軍事指揮官・行政官。地頭などを管轄して国を治め、強い軍事力を持つ。
地頭:領土(荘園等)と民衆(百姓等)を管理する地域の行政官。徴税権・警察権(軍事権)を持つ。
地方で圧倒的な力を有していた守護は、「地方を収める」には最も最適な存在でした。
ところが、当時の関東地方では、「本物の守護・守護代」が多数残存していたため、



守護や守護代の名前を
勝手に名乗るのはマズイ・・・



ならば、昔の執権の
「北条」が良い・・・
消去法で「昔の執権の北条氏」としたのが、伊勢氏の「政治の思惑」でした。
庄屋と商人の家に生まれた石田三成:当たった「石田家の計算」





我が石田家は、
浅井氏に所属した・・・
大した家柄ではないと思われる石田三成の生家・石田家。
その一方で、「石田村」と自らの姓を冠した村に生まれたことから、村の庄屋階級と思われます。
石田三成の父・正継、兄弟・正澄は、共に一定の教養や政治力を有していました。
おそらく、庄屋から商売に手を広げていた石田家は、比較的裕福であり、



小さい頃から、
商売や勘定を手伝っていました・・・
石田家の商売の手伝いから、三成の計算能力は磨かれたのでしょう。
そして、石田家の初期の頃は謎であり、「1570年頃、台頭していた織田家に仕えた」説があります。
この頃は、ちょうど織田・徳川と朝倉・浅井の姉川の決戦が行われた頃でした。
つまり、「台頭した巨大勢力織田家と戦国大名・浅井氏決戦」の年です。
この頃は、まだまだ近江北部では浅井家の力が強力であり、浅井家は35万石ほど有したと思われます。
ここで、庄屋階級であったと思われる石田家が「地元の大勢力を無視」出来るはずがありません。
石田家は、初期の頃は「戦国大名・浅井家に仕えていた」と考えるのが最も妥当です。



私が10歳の頃に、
浅井家が没落し始めた・・・
「織田・徳川と朝倉・浅井の決戦」であった姉川の戦いでしたが、「決戦ではなかった」説が有力です。
それでも、決戦の地が「浅井の領土」であった「姉川」。





我が領内の
姉川の戦いで敗北した・・・
「自領で敗北」した事実は、地元に対して地元の領主・浅井家の影響力は大きくダウンしました。
対して、「越前王」であった朝倉家は、それほど大きなダメージは負わなかったため、



まだまだ
織田とは戦える!
朝倉家は勢力がそれほど減少せずに、1570年を乗り切ったと思われます。
庄屋・商人の石田家出身の石田三成は、商売の計算のみならず、世の中の流れを敏感に感じとっていました。
そして、三成は相応の「未来を見通す計算力」を持っていました。



これからは、
織田家に仕えるのが良さそうだ・・・
おそらく、「石田家の総意」として、1570〜71年に織田家に仕えたと思われます。
そして、この「三成の計算」は、確かに当たりました。


