庄屋と商人の家に生まれた石田三成〜当たった「石田家の計算」・守護と守護代の力が強く残存した戦国初期から中期・伊勢から北条へ〜|石田三成2・人物像・エピソード

前回は「戦国有数の頭脳を持つ男・石田三成の肖像〜数字がある不思議な名前・重要な戦国大名の名前・足利将軍家の「義」と偏諱〜」の話でした。

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治部少輔・豊臣大名 石田三成(歴史群像シリー55 石田三成 学研)
目次

守護と守護代の力が強く残存した戦国初期から中期:伊勢から北条へ

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左上から時計回りに、羽柴秀吉、石田三成、福島正則、加藤清正(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

戦国随一の政治力を有する、武将の一人と考えられる石田三成。

石田三成

我が石田家は、
近江北部の石田村に生まれたのだ・・・

名前生年
織田信長1534年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1543年
石田三成1560年
福島正則1561年
加藤清正1562年
細川忠興1563年
羽柴秀吉、石田三成と周囲の武将の生年

石田三成は、1560年に生誕しました。

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桶狭間の戦い(Wikipedia 歌川豊宣画)

桶狭間の戦いで信長がデビューした1560年に誕生し、まさに時代が大きく変化した頃でした。

戦国時代が「いつから始まったか?」は諸説あり、様々な解釈が成立します。

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歴代北条家当主:左上から時計回りに、北条早雲、北条氏綱、北条氏政、北条氏康(Wikipedia)
伊勢新九郎(北条早雲)

この伊勢新九郎、
小田原城を奪取せり!

有力な説は、伊勢新九郎(北条早雲)が小田原城を奪取した1495年頃が「戦国スタート」です。

つまり、1500年頃から、「下剋上」と呼ばれる戦国時代が開始していましたが、

伊勢新九郎(北条早雲)

まだまだ、守護や
守護代の力は強い・・・

この頃は、鎌倉時代以降続いていた「守護と守護代」の影響力が、強く残存していました。

伊勢宗瑞(新九郎)から、二代目・北条氏綱に至る話を、上記リンクでご紹介しています。

政所執事の伊勢家の庶流と目される「伊勢」氏は、関東で勢力を張るにつれ、

北条氏綱

我らの
名前を「北条」とする!

伊勢から「北条」に名前を変えました。

この「北条」は、鎌倉幕府執権であった「北条家」にあやかったと思われます。

北条氏綱

本当は守護の名前が
よかったのだが・・・

守護・地頭

守護:各国の軍事指揮官・行政官。地頭などを管轄して国を治め、強い軍事力を持つ。

地頭:領土(荘園等)と民衆(百姓等)を管理する地域の行政官。徴税権・警察権(軍事権)を持つ。

地方で圧倒的な力を有していた守護は、「地方を収める」には最も最適な存在でした。

ところが、当時の関東地方では、「本物の守護・守護代」が多数残存していたため、

北条氏綱

守護や守護代の名前を
勝手に名乗るのはマズイ・・・

北条氏綱

ならば、昔の執権の
「北条」が良い・・・

消去法で「昔の執権の北条氏」としたのが、伊勢氏の「政治の思惑」でした。

庄屋と商人の家に生まれた石田三成:当たった「石田家の計算」

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左上から時計回りに、戦国大名 織田信長、今川義元、上杉謙信、武田信玄(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)
石田三成

我が石田家は、
浅井氏に所属した・・・

大した家柄ではないと思われる石田三成の生家・石田家。

その一方で、「石田村」と自らの姓を冠した村に生まれたことから、村の庄屋階級と思われます。

石田三成の父・正継、兄弟・正澄は、共に一定の教養や政治力を有していました。

おそらく、庄屋から商売に手を広げていた石田家は、比較的裕福であり、

石田三成

小さい頃から、
商売や勘定を手伝っていました・・・

石田家の商売の手伝いから、三成の計算能力は磨かれたのでしょう。

そして、石田家の初期の頃は謎であり、「1570年頃、台頭していた織田家に仕えた」説があります。

この頃は、ちょうど織田・徳川と朝倉・浅井の姉川の決戦が行われた頃でした。

つまり、「台頭した巨大勢力織田家と戦国大名・浅井氏決戦」の年です。

この頃は、まだまだ近江北部では浅井家の力が強力であり、浅井家は35万石ほど有したと思われます。

ここで、庄屋階級であったと思われる石田家が「地元の大勢力を無視」出来るはずがありません。

石田家は、初期の頃は「戦国大名・浅井家に仕えていた」と考えるのが最も妥当です。

石田三成

私が10歳の頃に、
浅井家が没落し始めた・・・

「織田・徳川と朝倉・浅井の決戦」であった姉川の戦いでしたが、「決戦ではなかった」説が有力です。

それでも、決戦の地が「浅井の領土」であった「姉川」。

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左上から時計回りに、織田信長、朝倉義景、浅井長政、徳川家康(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)
浅井長政

我が領内の
姉川の戦いで敗北した・・・

「自領で敗北」した事実は、地元に対して地元の領主・浅井家の影響力は大きくダウンしました。

対して、「越前王」であった朝倉家は、それほど大きなダメージは負わなかったため、

朝倉義景

まだまだ
織田とは戦える!

朝倉家は勢力がそれほど減少せずに、1570年を乗り切ったと思われます。

庄屋・商人の石田家出身の石田三成は、商売の計算のみならず、世の中の流れを敏感に感じとっていました。

そして、三成は相応の「未来を見通す計算力」を持っていました。

石田三成

これからは、
織田家に仕えるのが良さそうだ・・・

おそらく、「石田家の総意」として、1570〜71年に織田家に仕えたと思われます。

そして、この「三成の計算」は、確かに当たりました。

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