前回は「西郷隆盛 2〜近世を葬った男の実像〜」の話でした。

今回は幕府側の大物 井伊直弼の話です。
安政の大獄で有名な井伊直弼ですが、彼の実像から考えます。
徳川譜代の中でも別格で、御三家とも伍す名門・井伊彦根藩に生まれました。


我が井伊家は、
超名門だぞ!
質実剛健とも言えるその佇まいは、徳川家における井伊家の存在感と家風を示しています。
井伊家の藩祖 井伊直政は徳川家康に長く仕え「徳川四天王」の一人です。
徳川四天王は酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人です。
筆頭格は酒井忠次ですが、家康の長男信康の自害事件の際に、家康と酒井の仲が冷え込みます。
本多と榊原は戦場での働きが最も得意である一方、軍政や謀略は得意ではなかったのです。
軍事に政治に智謀に富んだ井伊直政は、家康にとって大変重宝されました。


家康の元で大活躍をする井伊直政は1600年の関ヶ原の戦いの後に、近江佐和山18万石を任されます。
これこそまさに、家康がいかに井伊直政を重視していたかが分かります。
関ヶ原の戦いまでは、京・大坂が日本の中心でありましたが、関ヶ原後は徳川家の本拠地・江戸に日本の重心が移動してゆきます。
と言っても、それまでは日本の首都が京・大坂であり、この二つの大都市が非常に近いところにあったので、突然「江戸が首都だ」と言っても、すぐにはそうはならないのです。
1615年大坂の陣の頃までは、流通の多くが大坂に集まっており、まだまだ江戸は田舎都市の一つでしかなかったのです。
さらには、佐和山は関ヶ原の戦いで戦った西軍の首謀者石田三成の本拠地です。


非常に重要な土地であり、秀吉が三成に任せたように、家康は井伊直政に佐和山を任せました。
そして、日本を二分する戦いの相手方(敵)の代表者の土地を、差配せしめたのでした。


当時、家康の信頼厚い譜代の家臣の多くは、江戸周辺に領地を得ました。



近江佐和山を任せられるのは、
井伊直政しかいない!



この直政にお任せください!
家康からすると「」でした。
日本の中心に位置し、京・大坂に睨みを効かせる位置にある近江の中心地・佐和山。
「古来から商業が盛んで肥沃な土地、さらには国産の鉄砲等調達できる国友村もある」という全て揃った近江 佐和山を任された井伊直政は奮ったでしょう。
関ヶ原合戦で、三成率いる西軍に勝った徳川家。
しかし、豊臣家はまだまだ健在で加藤清正・福島正則らの豊臣系の武将も数多く存命中です。


そして、徳川家康はまだ形式的には「豊臣家の後見人かつ重臣」であったのです。


石田三成は大変領民にも人望があったため、三成亡き後の佐和山を統治することは大変な苦労があったでしょう。
徳川の世をつくる中心人物の一人として、佐和山周辺の街づくりをしながら、井伊直政は大きな役割を任されます。