前回は「織田信長の実像と戦国の覇王が創り出そうとした未来〜信長が考えていた織田家の未来・第六天魔王の視線・武田討滅戦・万全期す信長・天下統一後の「国のヴィジョン」〜」の話でした。

「桶狭間の大失態」と今川義元の能力:桶狭間の戦いの真相

今回は、今川義元を考えてみます。
戦国大名の中でも、今川義元に対する評価は、かなり浮き沈みがあります。
筆者が中学生だった1990年前半頃は、概ね「今川義元=愚将」の評価が固定していたと考えます。
その後、「坊ちゃん大名」だったとは言え、駿遠三・三カ国の太守であった今川義元に対して、

今川義元は、
一定以上の政治力を有していたのでは・・・
少なくとも「一定以上の政治力を持っていた」という評価が高まり、筆者も同意見です。


政治能力・軍事能力・知謀力トップの信長、信玄、謙信、元就らと比較すると、どうしても霞む義元。
そもそも、「愚かな大名筆頭」と言えば、朝倉義景が思い浮かびます。
筆者は、「愚将筆頭格」の義景もまた、一定以上の規模の国を治める「相応の政治力」を有していたと考えます。
朝倉義景に関する話を、上記リンクでご紹介しています。


今川義元の評価が圧倒的に低くなる場合、その根拠は勿論、「桶狭間の大失態」です。
三ヶ国を有し、尾張にも牙城を築いていた今川義元に対して、若者で尾張一カ国に満たない領土の信長。



駿河を出陣して、
尾張へ侵攻する!
国の数で言えば、「三カ国vs一カ国」という圧倒的な差がついていながら、



ま、まさか・・・
この義元が・・・
信長に「大敗北を喫した」ばかりではなく、「自身の首を取られる」という超大失態を演じた義元。
この「圧倒的に強かった」にもかかわらず、「小勢の織田家に致命的大敗北を喫してしまった」義元。
諸説ありますが、今川軍25,000人vs織田軍2000人という説もあり、「10倍以上の軍勢」だった今川軍。
それにも関わらず、「勝った気分で、のんびり酒盛りしていたら、大敗北」が通説となってきました。
この通説が正しければ、確かに今川義元は愚将となると考えます。
ただし、この「桶狭間の戦い」の流れは、真相は不明な点が多いです。
実力勝負の戦国期における将軍と権威:強く残存していた守護の権威


そして、駿遠三・三カ国の太守であった今川家の大敗北が、織田と徳川の時代の幕開けとなりました。
桶狭間の戦いでの、今川と織田の国力差である「三カ国vs一カ国」に関しては諸説あります。
「三カ国vs一カ国」に関しては、



太閤検地の結果、
尾張の石高は50万石を超える・・・



そして、駿遠三の三カ国で
合計70万石ほど・・・



だから、「三カ国vs一カ国」ではなく、
石高では、それほど大差なかったはずだ!
石高での比較では、「大差なかったはず」という意見もあります。
その上、小京都・駿河に対して、流通と商業が盛んだった尾張を持っていた信長。
商業力を加味すると、「織田家と今川家の国力にそれほど大きな差はなかった」意見もあります。
一方で、筆者は、尾張統一した信長といえども、家柄の問題から当時は「尾張未統一だった」と考えます。
守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家 |
守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家 |
国衆(地侍) | 三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家) |
実力勝負の戦国時代と言えども、権威の力は強力でした。





三好や松永は、
何をしでかすか分からんと思っていたが・・・



まさか、この将軍・義輝を
白昼攻撃しに来るとは・・・
1565年、将軍・足利義輝が白昼殺される事態となった戦国時代。
桶狭間の戦いが、勃発した1560年の5年後のことでした。
足利義満で有名な室町幕府ですが、その権力の実態が不明瞭である面が強いです。
それでも、当時まだ「守護」が残存していた戦国期には、「守護の任命権」は将軍にありました。
1553年には、まだまだ若き長尾景虎が足利義輝に拝謁するために、わざわざ上洛しました。



上洛して、足利家を
お守りするのだ!
守護代の家柄であった長尾家は、権威をつけるために奔走したのが実態でした。
この「守護と守護代の序列」で考えれば、今川と織田では「二ランク以上の差」があったのが現実でした。



我が今川は
守護であり・・・



足利家に嗣子がいない場合は、
「吉良か今川」なのだ・・・
この「吉良か今川」に関しては諸説ありますが、駿遠三・三カ国で「公式に太守(守護)」だった今川。


1555年頃には、周囲に「守護の友達」である武田と「成り上がり」の北条が覇を競っていました。



駿遠三・三カ国を
どう治めてゆくか・・・
そして、実力勝負の荒れた戦国時代において、若き頃から広大な領土を治めた義元。
今川領内においても、「叛逆の不穏な空気」があったはずです。



この義元が、
駿遠三を押さえるのだ!
少なくとも、一定以上の政治力を有していたことは間違いないでしょう。



我が今川は、
どう勢力を伸ばしてゆくか・・・
この「一段も二段も上」の立場から、今川義元は「今川の未来」を考えていたのでしょう。