前回は「明治維新の原動力となった島津義弘の「敵中突破」パワー〜名門中の名門の島津家・駆け抜けた「戦国の華の時代」〜」の話でした。

徳川軽視と敵中突破:鎌倉幕府成立時からの守護・島津家

戦国期最大の合戦となった関ヶ原の合戦において、前代未聞の「敵中突破」を敢行した島津義弘。

西軍はもう敗北だが、
我が島津は決して負けん!
形式上西軍についた島津軍は、「敗北側」となりました。
ところが、「武の化身」のような存在だった島津義弘は、東軍の中央を突破して退却しました。



敵中突破して、
我が島津へ退却!
言わば「前進して退却」という異常な退却戦を貫いた島津軍は、「異質な存在」でした。



目の前を
通過して退却など、許さん!



島津を討つのだ!
惟新(義弘)を討ち取れ!
島津軍は「島津秘中の秘の極意」である「捨て奸」を発動して、義弘ほか一部が退却に成功しました。
1,500名ほどいた島津軍は、ほとんどが討死し、薩摩に帰りついたのは「わずか80名ほど」と伝わります。
つまり、「1,420名/1,500名=約95%」の死者を出しながらも、異常な戦いを貫いた島津。



我が島津は、徳川ごときに
何か指図される立場ではないわ!
島津義弘からすれば、事実上の天下人となった家康すら「軽い存在」だったでしょう。
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
島津義弘 | 1535年 |
羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
徳川家康 | 1543年 |
そもそも家康の8年年上であり、家柄は「圧倒的に上」だった島津義弘。





これからは、我が源氏が
天下を治める!



各地に守護・地頭を設置して、
鎌倉幕府を開設する!
「幕府」という言葉は、江戸時代に生まれた説が強く、当時は「なかった」可能性が高いです。
ここでは、形式的に「幕府」という言葉を頼朝が言ったことにします。



薩摩・大隅は、
従来からの大名の島津を守護に任命する!
かねてから「大名」としての地位を確立していた島津は、薩摩・大隈の守護となりました。
足利義昭の偏諱拝領した島津義弘:将軍家重視の島津の伝統


武家政権=武力政権の黎明期から、「守護であり続けた」島津家。
実は、鎌倉時代の一時期に、島津家は鎌倉幕府から「薩摩などの守護を外された」説があります。
このように「一時的に外される」ことは、歴史の流れ上、やむを得ないことであり、



我が島津は、一貫して
薩摩・大隅の守護なのだ!
島津家としては、1185年の守護・地頭設置以来、「ずっと守護」の気持ちだったでしょう。
守護:各国の軍事指揮官・行政官。地頭などを管轄し、強い軍事力を持つ国を治める役職。
地頭:領土(荘園等)と民衆(百姓等)を管理する地域の行政官。徴税権・警察権を持つ役職。
「守護と地頭」と呼ばれますが、守護の方がはるかに強力な立場でした。
言わば、地頭は「守護の補佐役」であり、各国は「守護を頂点とした統治機構」を持っていました。





鎌倉幕府を打倒して、
我が足利の室町幕府を開設したが・・・



各国の「守護トップの統治機構」は
継承しよう・・・
鎌倉幕府の源氏将軍は「たった3代で終了」し、その後は「お飾り将軍」が続きました。
そして、鎌倉幕府の実権を握っていたのは、執権北条家であり、北条家は平氏を名乗っていました。
対して、足利は源氏であり、形式的には「源氏が平氏を倒した」ことになった室町幕府の足利将軍。
その一方で、「同じ源氏」である源頼朝が作り上げた「守護トップの統治機構」は堅持しました。



我が島津は、鎌倉幕府から
室町幕府に続く守護なのだ!
「鎌倉から室町までずっと守護」は、島津以外には、大友・武田など数少ない存在でした。
その「極めて貴重な家柄の一つ」であった島津家が「自尊心が高い」のは当然でした。
そして、1535年に「島津忠平」という名前で生まれた義弘。





我が義昭の字を
一字「義」を授けよう・・・



有り難き幸せ!
今日から、忠平は義珍と名乗ります!
忠平は、将軍・義昭の偏諱を受けて、義珍へと改名し、次いで義弘と名を改めました。
足利家から「一字を受ける=偏諱を拝領する」ことは、当時多かったですが、「義」の字は少数派でした。
二代目義詮以降、足利将軍家に綿々と続いた「義」の一字は、非常に尊い扱いであり、



島津は、名門なので
特別に「義」を授けるのだ!



ははっ!
この島津は、将軍家に忠誠誓います!
おそらく、島津家の当主・当主に近い人物たちは、「将軍家を尊崇」する立場だったでしょう。
この「将軍家崇拝」の島津家から見れば、「関ヶ原」時点の徳川家は、



徳川家が、我が島津を越える
大大名であることは認める・・・



家康が長い歴史と
高い軍事力・政治力を持つことも認めよう・・・



家康が内大臣であり、朝廷で
重い立場であることも分かっている・・・



だが、お前(家康)は、将軍家でも
なんでもない存在だろう!
「将軍家でもない」徳川などは、「超名門の守護」島津から見れば「格下だった」のでしょう。