前回は「戦国「最強の武将」・真田幸村の実像〜「戦国最強の徳川家康」を追い込んだ采配と軍略・三方原で「木っ端微塵にされた」家康〜」の話でした。

名門中の名門の島津家:駆け抜けた「戦国の華の時代」

薩摩と言ったら島津であり、島津と言ったら、やはり島津義弘です。

おいは、
1535年生まれごわす!
兄・義久を守り立てたため、大名・当主にはならなかった島津義弘。
その代わりのような形で、義弘の息子である忠恒(家久)が後に島津家の第18代当主となりました。
「島津の顔」であり続けた島津義弘は、事実上「戦国大名」と考えます。
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
島津義弘 | 1535年 |
羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
徳川家康 | 1542年 |
島津義弘は、織田信長よりも1歳若く、秀吉より2歳年上です。
ちょうど良い年齢であったこともあり、戦国時代中期〜後期の「戦国の華の時代」を走り抜けました。



我が島津家は
名家である!
数多くの戦国大名が登場しましたが、厳密には「守護大名と戦国大名」に分かれます。
守護大名:元々守護であった家・組織が軍事力を強化して大名化
戦国大名:元々は国衆や地侍等の「軽い身分」だった家・組織が軍事力を強化して大名化
もともと「国のトップだった守護」が戦国大名化したのが、守護大名です。
このあたりの定義は曖昧で、「守護大名(の一部)が戦国大名化」したという説明も可能です。
守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家 |
守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家 |
国衆(地侍) | 三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家) |
そして、多数の有力戦国大名が登場する中、島津・武田・大友・今川などは「守護出身」でした。
しかも、「守護が設置された時代」から薩摩・大隅の守護であった島津は、



我が島津は、
南九州のボスであり続けたのだ!
他の大名とは「別格」とも言える存在でした。
室町時代に「足利将軍家に準ずる」家格だったと言われる今川家は、



御所(足利)が絶えなば吉良が継ぎ、
吉良が絶えなば、今川が継ぐ!
「足利の次の次」とも言われる立場でしたが、諸説あります。





我が今川は
足利に準じる超名門!
いずれにしても、駿河・遠江二カ国の守護であった今川家に対して、



我が島津は、薩摩・大隈に加えて、
越前守護も務めたことがある!
「越前守護も兼ねた」説がある島津家の方が格上であり、島津は名門中の名門と言って良いでしょう。
明治維新の原動力となった島津義弘の「敵中突破」パワー


若き頃から、闘将と表現するよりも「闘神であり続けた」ような島津義弘。
その島津義弘の戦いの白眉は、何と言っても、関ヶ原の戦いでの敵中突破です。



徳川殿と石田殿で
大規模な合戦となる・・・



だが、我が島津軍は、
たったの1,500ほど・・・
「関ヶ原から遠い」こともありましたが、島津軍は家格・石高に比較して、極めて過小な兵力でした。



ここ10年ほどは、我が島津に
とって、苦難の連続だった・・・
豊臣秀吉による九州征伐、そして文禄・慶長の役での朝鮮での明軍との戦いが続きました。
極め付けは、秀吉死後まもなく勃発して、重臣・伊集院忠棟(幸侃)一族の反乱でした。



石田治部には
恩義もあるし、親しい関係だが・・・
実は、秀吉の九州征伐の後に、島津家は石田三成に「世話になった」歴史がありました。
ところが、頭脳派で合戦は「専門外」だったはずの三成は、



皆さんは、
私の采配に従ってください!
歴戦の将である島津義弘などの進言を退け、独断専行が目立ちました。



石田は、ワシのいうこと
全然聞かんし・・・
少人数過ぎたこともあり三成に重視されず、「戦いの決定打」がないまま、戦場で過ごした義弘。
東西合わせて十万以上の軍勢が死闘を繰り広げた、関ヶ原の戦いは、午後には趨勢が決まりました。



これは、石田方の
敗北だのう・・・



やむを得んな・・・
我が島津は退却する!



だが、「後退して退却」ではなく、
前進して、敵中突破して退却する!
そして、「勝利が確定した徳川方」の目の前を退却し始めた島津軍。



島津か・・・
舐めおって・・・



島津を討つのだ!
惟新(義弘)を討ち取れ!



前へ、前へ!
我が島津の底力見せよ!
どう考えても、義弘は「討死するはず」でしたが多数の犠牲の元、辛くも薩摩に生きて戻った義弘。
さらに、「取り潰し」の対象となるべき薩摩であり、軽くても「大幅減封」のはずでしたが、



家康!
我が薩摩領土に手をつけるならば、来い!



島津は強すぎる・・・
さらに薩摩にまで攻めるのは大変すぎる・・・



まだ豊臣の力は
残っており、揉めるのは得策ではない・・・
その結果、関ヶ原で徳川と敵対しただけではなく、



我が目の前で
敵中突破などしおって・・・
「徳川の面子を潰した」島津は、「お咎めなし」となりました。


そして、この義弘の「敵中突破の精神」は、その後も薩摩に流れ続けました。



徳川を
ぶっ潰すごわす!



もう徳川の世には
ピリオドを打つべき!
そして、この「敵中突破精神」が薩摩を奮い立たせ、明治維新の原動力となったと言って良いでしょう。