10倍の敵を倒した「若き闘神」島津義弘〜大友と龍造寺と島津・島津の「守護の格式強化」の狙い・下剋上と大義名分〜|島津義弘3・人物像・エピソード

前回は「足利義昭の偏諱拝領した島津義弘〜将軍家重視の島津の伝統・徳川軽視と敵中突破・鎌倉幕府成立時からの守護島津家〜」の話でした。

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戦国大名 島津義弘(図説・戦国武将118 学研)
目次

島津の「守護の格式強化」の狙い:下剋上と大義名分

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1552-55年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

鎌倉以来の守護であり、「名門中の名門」であった島津家に生まれた島津義弘。

守護・守護代・国衆(地侍)出身大名
守護武田家・大友家・島津家・今川家・大内家
守護代長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家・三好家
国衆(地侍)織田家・徳川家・毛利家・北条家・伊達家・(豊臣家)
戦国期の大名の家柄:守護・守護代・国衆(地侍)

鎌倉幕府・室町幕府の間、基本的に一貫して薩摩・大隈付近の守護であり続けた島津家。

一時的に「薩摩・大隈の守護を外された」説もありますが、長きにわたり守護であり続けました。

超名門であった島津家でしたが、他の家同様に内部抗争に明け暮れました。

そして、戦国初期には大きく勢力がダウンしていた島津家。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
島津義弘1535年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1543年
戦国大名の生年

織田信長の一歳年下である島津義弘は、ちょうど戦国風雲の時代を過ごすことになりました。

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第十五代足利将軍 足利義昭(Wikipedia)
足利義昭

我が義昭の字を
一字「義」を授けよう・・・

島津義弘

島津忠平から
島津義珍と名乗ります!

最後の室町幕府将軍となった足利義昭から、偏諱を受けた説がある島津義弘。

この「偏諱の時期」は不明ですが、義昭が将軍となった1568年から追放された1573年の間と思われます。

この頃、壮年である35歳頃を迎えていた島津義弘。

ちょうどこの頃は、島津家が大きく勢力を拡張していた時期でした。

「根っからの守護」であった島津家としては、「守護の格式」は極めて重要でした。

元々「薩摩と大隈の守護であった」事実は、「薩摩と大隈を治める大義名分」となるからです。

島津義弘

大義名分のため、
室町幕府とは近づこう・・・

義弘及び島津家には、「将軍家と結びつくことによって、守護の格式強化」を狙ったのでしょう。

下剋上の世とは言え、大義名分は極めて重要でした。

10倍の敵を倒した「若き闘神」島津義弘:大友と龍造寺と島津

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左上から時計回りに、戦国大名 武田信玄、織田信長、毛利元就、上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

島津義弘が将軍から偏諱を受けたと思われる1570年頃は、大きく時代が動きました。

織田信長

この信長が
将軍家を奉じて京へ!

1568年、織田信長が将軍となる足利義昭を奉じて、京に一気に乗り込みました。

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1569-72年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

ここで一気に勢力を拡張した織田家でしたが、武田、上杉、毛利なども強力でした。

島津義弘

中央では、
織田家が急速に伸びている・・・

島津義弘

「守護代の下」であった
織田がのう・・・

次男であった島津義弘は、長男・跡取りであった兄・義久、弟・歳久らと協力して島津を盛り立てました。

そして、領土拡張し、元々守護であった薩摩と大隈の大部分を占領した島津家。

島津義弘

我が島津家は、
元々領土であった薩摩と大隈を治めた・・・

この頃、九州もまた群雄割拠でしたが、「頭ひとつ抜けた」存在が大友家でした。

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戦国大名 大友宗麟(Wikipedia)
大友宗麟

我が大友家は、
豊後周辺の守護の家柄だ!

元々豊後周辺に強固な地盤を持っていた大友宗麟は、1560年代勢力をさらに拡大しました。

そして、九州で六カ国に領土を広げ、200万石近い大領土を築いた大友家。

キリスト教に帰依し、貿易にも積極的であった大友家は、海外から多数の武器も仕入れていました。

それに対して、「同じ守護出身」の島津家は、40万石〜50万石程度であり「格下」でした。

そして、のちに「大友・龍造寺・島津三国志」を演じる、龍造寺隆信は大友に従属していました。

島津義弘

だが、同じ守護出身の
大友の方が遥かに強力だのう・・・

島津義弘

とにかく、周囲に領土を
拡張するしかない!

のちに「闘神」のような存在となる島津義弘は、連日のように合戦に明け暮れました。

島津義弘

次は、日向に攻め込み、
領土を拡張だ!

そして、日向の名家であった伊東氏と衝突した島津義弘。

島津義弘

伊東軍3,000に対し、
我が軍は300か・・・

この頃、40万石はあったはずの島津家の次男であった義弘。

義弘が「300しか軍勢を持たなかった」事実は謎ですが、この頃は日向と肥後に同時侵攻していた島津。

多方面作戦で、軍勢が不足であった隙に伊東と決戦となりました。

島津義弘

10倍の敵である
伊東を打ち負かしたぞ!

そして、1572年の木崎原の戦いで、10倍の敵を倒した島津義弘。

すでに「若き闘神」となっていました。

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