中世改革を目論んだ「中世の変革者」北条氏康〜関東の鷲を産んだ北条家・信玄謙信と互す超名将氏康・伊勢宗瑞の登場・猛烈なパワーで伊豆から席巻・「中世の変革者」北条氏康・伊豆から関東の覇王へ〜|北条氏康1・出身・出自・性格

前回は「上杉謙信 1〜中世保持を目論んだ「中世の伝道者」・越後の龍・関東管領・北条氏康〜」の話でした。

北条氏康(Wikipedia)
目次

関東の鷲を産んだ北条家:信玄・謙信と互す超名将・氏康

左上から時計回りに、戦国大名 織田信長、徳川家康、上杉謙信、武田信玄(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

今回は、武田信玄・上杉謙信と三つ巴で争った智勇兼備の名将:北条氏康です。

信玄、景虎と地味な印象のある氏康。

「戦国時代の大名」や「戦国大名」というと、まず織田信長・豊臣(羽柴)秀吉・徳川家康となります。

そして、「武の化身」のような存在である、武田信玄と上杉謙信が続きます。

「この5名によって、大きくは作られた時代」と捉えられがちな戦国時代。

そもそも、豊臣(羽柴)秀吉は信長の家臣であるので、秀吉は信玄・謙信の時代とずれます。

「戦国時代の最盛期」とも言える1570〜1575年頃の元亀・天正の熾烈な戦い。

この頃に、織田信長・徳川家康・武田信玄・上杉謙信及び各大名のスター武将たちが勢揃いしました。

この意味では、戦国時代は「織田信長・徳川家康・武田信玄・上杉謙信」の四名中心と言えなくもないでしょう。

そして、北条氏康は、一般的な知名度がかなり劣る存在です。

知名度が劣りますが、北条氏康は文武両道の類稀な武将です。

私がいたからこそ、
信玄・謙信の存在が光ったのだ!

武田信玄は甲斐守護の武田家、長尾景虎は越後守護代の長尾家出身ですが、北条家は、まさにデキ星大名でした。

ここで、戦国期の大名たちの出自を考えてみましょう。

戦国大名の出自・由来

武田家:甲斐守護

上杉(長尾)家:越後守護代

織田家:尾張守護代の三家老の一人

徳川家:三河国人・国衆・土豪

豊臣家:なし

北条家:室町幕府政所執事・伊勢家?

北条氏康の北条家の出自・由来には諸説あり、「政所執事伊勢家の関係者では?」が昔から有力です。

あるいは「備中に所領があった伊勢氏」に由来する説もあります。

いずれにしても「関東とは全く関係がない」存在でした。

その縁もゆかりもない関東において、着実に力をつけた北条家。

北条氏康の代には大いに勢力を伸長させ、「隣国」とも言える武田信玄・上杉謙信の侵攻を阻んだのが氏康でした。

伊勢宗瑞の登場:猛烈なパワーで伊豆から席巻

伊勢宗瑞(北条早雲)(Wikipedia)

北条氏康に至るまでの北条家を、見てみましょう。

初代の北条早雲は本名の伊勢宗瑞の頃に今川家に関わって、伊豆へ侵攻します。

室町幕府の高級官僚・政所執事の家柄である「伊勢家の関係者」という説もある、伊勢宗瑞。

あるいは、「備中伊勢家関係者」と言われる伊勢宗瑞。

実態は、定かなことは分かりません。

幕府の超有力大名であり、駿河守護であった今川義忠の親族となった伊勢宗瑞。

私が、
今川家の混乱を手助けしましょう!

今川家において、伊勢宗瑞が「どのような役割をしたか」は諸説あります。

応仁の乱から戦国時代へ移行する大混乱時代。

戦国時代が最も混乱した時代ですが、おそらく関東付近は「急に混乱が増えた」時期だったでしょう。

ここで、室町幕府と何らかのつながりがあり、能力が極めて高かった伊勢宗瑞は非常に頼られます。

伊勢宗瑞殿のおかげで、
様々な混乱が押さえられました・・・

お礼に伊豆と駿河国境に近い
興国寺城を差し上げます・・・

私が、
今川家の東を守りましょう!

伊豆の韮山城に地歩を築いた宗瑞(以下、早雲)は、扇谷・山内両上杉家が支配していた相模から武蔵へと侵攻を企てます。

当初は同盟関係にあった扇谷上杉氏と断交した早雲は、相模へと侵攻します。

関東勢力図:1507年頃(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

同じ上杉家である「扇ヶ谷」と「山内」で争っている関東に、突然に伊勢宗瑞率いる勢力が伊豆の端に登場します。

どんどん領土を
広げるぞ!

鳴り物入りで、関東に乱入した早雲。

関東武士たちは思ったでしょう。

伊勢って、
誰?

私が
関東の覇王になるのだ!

旧勢力が、小競り合いしていた関東。

伊勢宗瑞の登場によって、一気に嵐が吹き荒れてゆきます。

「中世の変革者」北条氏康:伊豆から関東の覇王へ

新歴史紀行
関東・甲信勢力図 1561年(歴史人 2020年11月号掲載図から一部抜粋

この後、大大名へなっていった北条家。

北条氏康の頃には、伊豆・相模・武蔵周辺を領しました。

軍事力・政治力に極めて優れた北条氏康。

中でも、北条家は「年貢が低減され、住みやすい」国でした。

年貢は四公六民
でよい!

当時の年貢は「五公五民」(収穫高の50%を年貢として差し出す)ことが多かった戦国期。

中には、「六公四民」(収穫高の60%を年貢として差し出す)などのケースもありました。

その中で、「四公六民」(収穫高の40%を年貢として差し出す)は農民にとって天国のような環境でした。

単純に、同じ収穫で、「四公六民」と「五公五民」を比較すれば、自分の分は60/50=120%になります。

つまり、「20%も自分の分前が増える」というのは、農民にとっては、

おい、
北条領にゆけば、20%分け前が増えるぞ!

なに!
それは、素晴らしい国だ!

だが、なにか裏が
あるのではないか?

いやいや、
北条領は住み心地も良いらしい・・・

となります。

これは、

民衆こそが
国の源!

と考えた氏康の考え方でした。

中世を大きく変えず、変革しようとした氏康。

信長ほど先進的ではなかったものの、まさに「中世の変革者」と呼べるでしょう。

新歴史紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次