「関東に始まり、関東に終わった」北条家と北条氏康〜「一国一城の主人」となった北条早雲の野望・急速に発展する北条家・押し開いた「戦国の風雲の扉」〜|北条氏康2・人物像・能力

前回は「中世改革を目論んだ「中世の変革者」北条氏康〜関東の鷲を産んだ北条家・信玄謙信と互す超名将氏康・伊勢宗瑞の登場・猛烈なパワーで伊豆から席巻・「中世の変革者」北条氏康・伊豆から関東の覇王へ」の話でした。

北条氏康(Wikipedia)
目次

「関東に始まり、関東に終わった」北条家と北条氏康

左上から時計回りに、戦国大名 織田信長、徳川家康、上杉謙信、武田信玄(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

武田信玄・上杉謙信と伍す、非常に高い能力を有していた北条氏康。

それにも関わらず、「地味な存在」の北条氏康及び北条氏。

この「地味な理由」は、戦国時代のメインストリームである、織田・豊臣・徳川のラインから外れていることでしょう。

実際、豊臣秀吉に征伐される頃には250万石ほどの巨大な領土を有していた北条家。

織田・豊臣・徳川のいずれの大名とも、「大いに接点を持っていた」のが現実です。

そして、武田信玄とも上杉謙信とも戦い続けた北条氏康。

それでもなお、「地味」であるのは、どうしても「関東という地方での活動」に限られる印象があるからでしょう。

外交などで、織田信長とも接点を持ち、織田家末期には従属的立場となった北条家。

上杉謙信は、信長と手取川で戦い、柴田勝家率いる織田軍を粉砕しました。

武田信玄は、最晩年に西上作戦を強行し、三河・遠江で暴れ回り、徳川家を滅亡寸前まで追い込みました。

1572年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

我が武田の
騎馬隊で徳川を倒せ!

信玄め・・・

のちに天下人となる家康ですが、現実的にこの頃の武田は、徳川にとっては猛獣のような存在でした。

そして、三方原の戦いで武田軍は徳川・織田連合軍を木っ端微塵にしました。

この時、織田信長は3,000名という「過少な兵力」を援軍として送りました。

織田の援軍が、
少な過ぎだ・・・

この「過少な兵力」には、様々な理由があるでしょうが、

近畿で敵が多過ぎて、
大軍勢は送れぬ・・・

が実情だったでしょう。

京・山城中心の日本列島(新歴史紀行)

京・山城が中心の当時の日本において、近畿周辺で戦った経験を持つ信玄と謙信。

対して、遠く関東周辺で戦い続けた北条氏康。

名前生年(一部諸説あり)
毛利元就1497年
北条氏康1515年
武田信玄1521年
上杉謙信1530年
織田信長1534年
戦国大名の生年

信長よりも19歳年上の北条氏康は、織田家が急成長し始めた1571年に亡くなりました。

「関東に始まり、関東に終わった」北条家と北条氏康。

織田信長と直接
戦うチャンスが欲しかった・・・

近畿からあまりにも離れ過ぎている関東にいたため、「織田との戦い」は無縁でした。

北条が織田と干戈を交えるのは、本能寺の変後であり、すでに話の中心は秀吉に移動していました。

「一国一城の主人」となった北条早雲の野望

戦国大名 北条早雲(伊勢新九郎)(Wikipedia)

関東の端っこにある、伊豆に地歩を築いた伊勢新九郎・宗瑞(以下、北条早雲)。

戦国大名の出自・由来

武田家:甲斐守護

上杉(長尾)家:越後守護代

織田家:尾張守護代の三家老の一人

徳川家:三河国人・国衆・土豪

豊臣家:なし

北条家:室町幕府政所執事・伊勢家?

「政所執事」の伊勢家出身という説もありますが、どうも怪しいです。

「伊勢氏の関係者」ぐらいならば、あり得るでしょう。

「元・政所執事」にしては、北条家が巨大化した以降、足利幕府との接点が少な過ぎます。

いずれにしても、「織田信長の織田家」よりも家柄が劣る「北条家・伊勢家」。

感覚的には、「三河国人・国衆・土豪」の徳川・松平家よりも、家格は劣るでしょう。

何と言っても、徳川・松平家は、一時は勢力が非常に弱まったとはいえ「城の主人」だったのです。

「秀吉よりは遥かにマシ」であるものの、大した背景を持たない北条早雲。

混乱していた今川家に介入して、

私が、
今川家の混乱を手助けしましょう!

伊勢宗瑞殿のおかげで、
様々な混乱が押さえられました・・・

お礼に伊豆と駿河国境に近い
興国寺城を差し上げます・・・

私が、
今川家の東を守りましょう!

ここで、「一城の主人」となった北条早雲。

ここで、混乱を続け、小さな勢力が争っている関東地方に目をつけます。

伊豆で今川を支えてやるのも、
良いのだが・・・

関東に乗り込んで、
我が領土を広げるぞ!

超野心家であった北条早雲。

たかが一城を得た身分でありながら、関東へ殴り込みをすることを決意した早雲。

この頃、まだ「北条」を名乗っていないので、伊勢宗瑞で通していたと思われます。

関東には関東公方がおるが、
どうも不安定だ!

進め!
我が領土・城を増やすのだ!

急速に発展する北条家:押し開いた「戦国の風雲の扉」

関東勢力図:1507年頃(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

なんと、伊豆の端から相模に侵攻して、強豪三浦氏を滅ぼしてしまいます。

小田原城は、
知略で落城させた!

三浦を
攻め滅ぼしたぞ!

当初は、同盟関係にあった扇谷上杉氏と断交した早雲。

調子に乗って、相模を北上、侵攻を続けます。

関東勢力図:1516年頃(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

さらに各所で、旧勢力の親玉である上杉氏に勝ちます。

関東に全く地盤もない中、早雲は伊豆の端からどんどん北上してゆきます。

そして、ついに相模の過半を占領するに至ります。

そして、1518年に早雲は隠居して、二代目の氏綱にバトンタッチされます。

戦国大名 北条氏綱(Wikipedia)

氏綱よ。
あとは任せた!

父上!
お任せを!

まだ武田信玄は、生まれてません。

戦国大名 武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

信玄より若い謙信・信長も、もちろん出生してなく、戦国時代は始まったばかり。

二代目氏綱は父 早雲が開いた「戦国の風雲の扉」を、大きく開きました。

そして、関東を蹂躙し、時代の最先端を駆け抜けてゆきます。

この時は、まだ「伊勢氏」を名乗っていた北条氏。

関東と無関係だった伊勢氏が、関東を席巻してゆきます。

我が伊勢家を、
発展させるのだ!

新歴史紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次