高杉晋作「長州、尚男子あり!」〜馬関攻撃と新たな幕末維新の幕開け・馬関俗論党一掃した諸隊・「禁門の変から半年」長州藩士「薩賊」意識〜|維新風雲回顧録3・エピソード

前回は「高杉晋作「吾々の腕前を御覧にいれる!」〜中岡を見送った坂本龍馬・田中光顕が存命中に語った「維新風雲録」・「伊藤公直話」との違い〜」の話でした。

目次

高杉晋作「長州、尚男子あり!」:馬関攻撃と新たな幕末維新の幕開け

New Historical Voyage
維新風雲回顧録(田中光顕 著、新歴史紀行)

幕末維新の志士たちと直接触れた土佐藩士・田中光顕。

田中光顕は、明治政府で宮内大臣、初代内閣書記官長などを務めました。

そして、満を持して、1928年(昭和3年)に、上の「維新風雲回顧録」を出版した田中光顕。

既に、明治の次の大正の時代が終わり、昭和の時代になっていました。

もう少し早く出版しても良さそうだった、と筆者は考えます。、

その一方で、田中光顕は、この赤裸々な幕末維新の志士たちの生き様を語ることに対して、

田中光顕(架空)

明治が終わり、その次の大正も
終わった・・・

田中光顕(架空)

そろそろ、幕末維新の志士たちの
真相を語っても良い頃だろう・・・

「明治の次の大正が終わった」のを見計らって、昭和の時代に、出版に踏み切った、と考えます。

新歴史紀行
長州藩士 高杉晋作(国立国会図書館)
高杉晋作

長州、尚男子あり、
吾々の腕前を御覧にいれる!

そして、事実上「幕末維新を引き起こした男」と言っても良い、高杉晋作が遂に登場しました。

田中光顕

深夜、武装して、長府功山寺に滞在中の三条公以下
五卿に拝謁し、

田中光顕

直ちに馬関新地の会所を
襲った。

田中光顕

丁度、慶応元年
正月二日のことであった。

幕末、年号は頻繁に変わり、最後が「慶応」でした。

そして、明治元年=慶応四年なので、慶応元年は、明治元年の三年前、1965年になります。

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後の太政大臣 三条実美(国立国会図書館)

この頃は、「京都から追放」されていた三条実美に拝謁して、

高杉晋作

これから、挙兵して、
馬関新地の会所を攻撃します!

おそらく、俗論党の根拠地の一つであった馬関新地の会所を攻撃した高杉晋作。

高杉は、大いに意気揚々として、幕末維新の新たな章を切り拓きました。

名前生年所属
大村 益次郎1825長州
西郷 隆盛1827薩摩
武市 瑞山1829土佐
大久保 利通1830薩摩
木戸 孝允1833長州
坂本 龍馬1835土佐
中岡 慎太郎1838土佐
山縣 有朋1838長州
高杉 晋作1839長州
久坂 玄瑞1840長州
伊藤 博文1841長州
田中 光顕1843土佐
幕末維新の志士たちの生年

1865年は、高杉が27歳(数え年、以下同)の年であり、「若者パワー」炸裂でした。

馬関俗論党一掃した諸隊:「禁門の変から半年」長州藩士「薩賊」意識

新歴史紀行
若き日の伊藤博文(俊輔)(Wikipedia)

ここで、伊藤俊輔(博文)が登場します。

田中光顕

この時の兵は、
伊藤俊輔(後の博文)の率いていた力士隊と、

田中光顕

石川小五郎(後の川瀬真考)の率いる
遊撃隊を合したもので、

田中光顕

僅かな人数で
あった。

「僅かな人数」と、具体的な人数が記載ありませんが、「せいぜい数十名」と考えます。

ただし、田中光顕が「僅かな人数」と表現しているので、「20〜30名ほど」のようにも感じられます。

田中光顕

寡を以て衆を破るは、
朝駆けに限るとあって、

田中光顕

夜のうちに押し出し、手もなく、
馬関の俗論党を一掃した。

高杉晋作

寡を以て衆を破るは、
朝駆けに限る!

軍事・政治などにおいて、多数の天才的人物がキラ星の如く登場した幕末維新。

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明治維新の立役者たち:左上から時計回りに西郷隆盛、大久保利通、岩倉具視、木戸孝允(国立国会図書館)

確かに、幕末維新を一気に語るには、上の西郷・大久保・木戸・岩倉が適切です。

維新の四傑(新歴史紀行)

・薩摩:西郷隆盛・大久保利通

・長州:木戸孝允

・公家:岩倉具視

彼らもまた、天才的パワーを持っていた人物でしたが、軍事の天才の最たるものは高杉晋作と考えます。

高杉晋作

馬関の俗論党を
一掃したぞ!

そして、馬関の俗論党を排撃し、馬関に拠点を置いた高杉。

田中光顕

これに力を得て、正月六日の夜になると、
太田に集合していた諸隊のうち、

田中光顕

奇兵隊の雨宮慎太郎が、
忽如、決死の手勢を率いて、絵堂を襲うた。

高杉の動きに同調して、様々な諸隊が一気に踊り出しました。

田中光顕

これには俗論党の粟屋帯刀が、
諸隊鎮撫のため、出張していた。

田中光顕

明け方、帯刀の本営を破り、
雨宮は、遂に、有地品之丞に射撃されて戦死した。

ここで、高杉に同調して、諸隊の一つ奇兵隊を率いた隊長・雨宮慎太郎は、即戦死してしまいました。

それだけ、長州藩内部の「官軍」であった俗論党は、まだまだ強力であったのでした。

田中光顕

これがきっかけで、諸隊の奮起となり、
俗論党政府を倒し、

田中光顕

初めて、藩論の一致を
見たのである。

隊長・雨宮の戦死は、諸隊の奮起を喚起し、大いに諸隊は戦い、俗論党を一気に倒しました。

田中光顕

従って、私が中岡と共に、再度長州に入った際は、
防長二州の天地、全く勤王の旗風になびき、

田中光顕

俗論党は
声をひそめていた。

新歴史紀行
土佐藩士 中岡慎太郎(Wikipedia)
中岡慎太郎

一気に俗論党政府を
倒したか・・・

おそらく、中岡慎太郎もまた、激動の時代に立ち会い、大いに驚いたでしょう。

田中光顕

大分、吾々にとって、都合はよろしかったが、
只困ったことは、

田中光顕

諸隊の者、いづれも、薩摩と
提携することは欲しなかった。

田中光顕

薩摩は前年、会津に味方して、
長州人に煮湯を飲ませた、というのが彼等の胸にある。

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禁門の変(Wikipedia)

1965年正月、俗論党を倒した諸隊の遊説に入った中岡慎太郎。

その前年の1864年8月に勃発した禁門の変では、長州は徹底的に潰されました。

この時、「御所に一方的に攻め込んだ」長州は、当時の社会において「禁じ手を犯した」集団でした。

この点から見て、「長州が悪い」面もありますが、長州側からすれば「自分たちが正しい」でした。

まだ、禁門の変から半年も経過していなかった当時、到底「薩長同盟」の雰囲気はありませんでした。

むしろ、当時の長州藩には、

長州藩士S

薩賊会奸を
倒すのだ!

「薩摩と同盟」どころか、「薩摩は賊であり、倒す対象」以外の何者でもなかったのでした。

新歴史紀行

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