前回は「大敗北喫して凋落した滝川一益〜かつての敵地信濃の「地獄の撤退戦」・羽柴秀吉の謀略〜」でした。
「羽柴」の名前の由来:険悪だった丹羽長秀と柴田勝家
「時勢の勢い」を背景にした、人智を超えたパワーを持っていた羽柴秀吉。
これからは、
私の世よ!
長秀殿も
応援してくだされ!
古くからの織田家重臣の家柄だった丹羽長秀と柴田勝家。
丹羽と柴田は、昔から折り合いが良くなく、あまり仲は良くなかったのです。
権六(勝家の通称)は
傲慢だ・・・
織田家勃興期に、「ゴマスリ」で「木下から羽柴に名前を変えた」秀吉。
丹羽様にあやかって、
「丹羽から羽」を頂戴します!
出世頭の木下殿の名前に
して頂くとは、嬉しく思います・・・
柴田様にあやかって、
「柴田から柴」を頂戴します!
フンッ!
勝手にしろ!
「羽柴」のもとの丹羽長秀と柴田勝家が「あまり関係が良くなかった」のは、面白い事実です。
当時、佐久間信盛や林秀貞(通勝)が健在だったですが、明らかに将来性が高かった柴田勝家と丹羽長秀。
両方にあやかっておけば、
どう転んでも、将来OK!
秀吉は、こう考えていたに違いないでしょう。
排除された忍武神・滝川一益
そして、重臣・宿老でありながら、清洲会議から排除された滝川一益。
「清洲会議に間に合わなかった」にしても、その意見は尊重されるべき存在でした。
排除には当時「羽柴派」となった丹羽長秀も、関わっていたのでしょう。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
織田信長 | 1534年 |
林秀貞 | 1513年 |
柴田勝家 | 1522年 |
滝川一益 | 1525年 |
明智光秀 | 1528年 |
佐久間信盛 | 1528年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
私は、ずっと
権六が好きではない・・・
権六を中心にすると、
あいつは増長する・・・
そして、権六は私を
軽んじるだろうな・・・
かつて、佐久間・林・柴田・丹羽が中核だった織田家。
佐久間信盛と林秀貞が追放された後も、柴田勝家と丹羽長秀は「織田の中核」でした。
丹羽長秀は中核であり続けますが、秀吉・光秀の台頭を許します。
丹羽長秀とタッグ組んだ羽柴秀吉:織田家の分裂
よしっ、
ここは秀吉につこう。
こう決断した丹羽長秀。
織田四天王は一気に二人となり、そこを丹羽長秀・池田恒興が補佐する形になりました。
長秀は、昔からの仲間だが、
ワシとは折り合いが悪い・・・
恒興は、信長様に近かったが、
ワシとはそれほど仲良くはない・・・
これでは、猿めの
仲間ばかりではないか!
柴田勝家はこう気付きましたが、すでに「織田の新四天王」とも言うべき顔ぶれが変わりました。
一益!
一益はどうしているのだ!
ここは、超仲良しで織田家の宿老・重臣の歴が長い滝川一益に居て欲しかった勝家でした。
私はもはや不要か・・・
無念だ・・・
ところが、肝心の滝川一益は敗戦のショックのあまり、落魄してしまっていたのでした。
次回は上記リンクです。