排除された忍武神・滝川一益〜丹羽長秀とタッグ組んだ羽柴秀吉・織田家の分裂・「羽柴」の名前の由来・険悪だった丹羽長秀と柴田勝家〜|滝川一益22・人物像・軍事能力・エピソード

前回は「大敗北喫して凋落した滝川一益〜かつての敵地信濃の「地獄の撤退戦」・羽柴秀吉の謀略〜」でした。

滝川 一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

「羽柴」の名前の由来:険悪だった丹羽長秀と柴田勝家

織田家重臣 羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「時勢の勢い」を背景にした、人智を超えたパワーを持っていた羽柴秀吉。

これからは、
私の世よ!

長秀殿も
応援してくだされ!

織田家重臣 丹羽長秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

古くからの織田家重臣の家柄だった丹羽長秀と柴田勝家。

丹羽と柴田は、昔から折り合いが良くなく、あまり仲は良くなかったのです。

権六(勝家の通称)は
傲慢だ・・・

織田家勃興期に、「ゴマスリ」で「木下から羽柴に名前を変えた」秀吉。

丹羽様にあやかって、
「丹羽から羽」を頂戴します!

出世頭の
木下殿の名前にして頂くとは、嬉しく思います・・・

織田家重臣 柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

柴田様にあやかって、
「柴田から柴」を頂戴します!

フンッ!
勝手にしろ!

「羽柴」のもとの丹羽長秀と柴田勝家が「あまり関係が良くなかった」のは、面白い事実です。

当時、佐久間信盛や林秀貞(通勝)が健在だったですが、明らかに将来性が高かった柴田勝家と丹羽長秀。

両方にあやかっておけば、
どう転んでも、将来OK!

秀吉は、こう考えていたに違いないでしょう。

排除された忍武神・滝川一益

織田家重臣 滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、重臣・宿老でありながら、清洲会議から排除された滝川一益。

「清洲会議に間に合わなかった」にしても、その意見は尊重されるべき存在でした。

排除には当時「羽柴派」となった丹羽長秀も、関わっていたのでしょう。

名前生年(一部諸説あり)
織田信長1534年
林秀貞1513年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
佐久間信盛1528年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家重臣の生年

私は、ずっと
権六が好きではない・・・

権六を中心にすると、
あいつは増長する・・・

そして、権六は私を
軽んじるだろうな・・・

かつて、佐久間・林・柴田・丹羽が中核だった織田家。

佐久間信盛と林秀貞が追放された後も、柴田勝家と丹羽長秀は「織田の中核」でした。

丹羽長秀は中核であり続けますが、秀吉・光秀の台頭を許します。

丹羽長秀とタッグ組んだ羽柴秀吉:織田家の分裂

織田四天王(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

よしっ、
ここは秀吉につこう。

織田四天王は一気に二人となり、そこを丹羽長秀・池田恒興が補佐する形になりました。

新たな織田家の中心人物:左上から時計回りに柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

長秀は、昔からの仲間だが、
ワシとは折り合いが悪い・・・

恒興は、信長様に近かったが、
ワシとはそれほど仲良くはない・・・

これでは、猿めの
仲間ばかりではないか!

柴田勝家はこう気付きましたが、すでに「織田の新四天王」とも言うべき顔ぶれが変わりました。

一益!
一益はどうしているのだ!

ここで、超仲良しで織田家の宿老・重臣の歴が長い滝川一益に居て欲しかった勝家でした。

私はもはや不要か・・・
無念だ・・・

ところが、肝心の滝川一益は、敗戦のショックのあまり、落魄してしまっていたのでした。

新歴史紀行

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