前回は「滝川一益 20〜衰えた忍武神1〜」の話でした。

織田家の家老・柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興たちが集まった清洲会議。

事実上、勝家と秀吉の対決の場でした。

急速に落魄して、もはや落武者のようになっていた一益。

私は?
しかし、滝川一益は、清洲会議に参加していません。
「関東からの退却中で参加できなかった」説もあります。
一益が「間に合わなかった」のか「出席できる立場でなかった」のかは諸説あります。


前者なら致し方ないでしょう。
後者ならば、一益の織田家における功績を考えれば、本来「出席するべき」立場であったでしょう。
真相は不明です。
「明確な柴田勝家側」の有力者・滝川一益が出席できぬよう、羽柴秀吉が仕掛けた謀略であったようにも感じます。



滝川は、
私のことが嫌いだ。
勝家と同様、古くからの宿老であった一益。
成り上がりの秀吉を嫌っていたのでした。



秀吉は嫌いだ。



滝川は邪魔!



あいつは参加させない!
滝川が「間に合わないように」秀吉が罠を仕掛けていたのかもしれません。



滝川が参加できないように
するのだ。



滝川は排除だ。
北条相手に大敗北したとは言え、柴田勝家も上杉謙信相手に手取川で大敗北しました。
この時の大敗北の「一因を作った」とも言えるのは、「秀吉の独断の退陣」でした。
この点で、滝川の大敗北は、本来それほど責められる失態ではないと考えます。
対して、秀吉は「敗けない」慎重な作戦行動により、大敗北は逃れてきました。
この点で、秀吉の「民衆の力をベースにした」戦いは、非常な強さを持っていたと言えます。