猛将・滝川一益が感じた織田家の将来〜滝川家再編成と北条家・長年の織田家の中核多岐に渡る高い能力とマイルドな性格・東国を従える関東管領へ〜|滝川一益3・人物像・軍事能力

前回は「地味な滝川一益の出自と年齢〜鉄砲隊と忍び部隊・桶狭間の戦いの滝川一益・軍の最前線で奮闘・遅れた織田方面軍司令官の座・武田討滅戦〜」の話でした。

滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

長年の織田家の中核:多岐に渡る高い能力とマイルドな性格

鉄砲隊を指揮する滝川一益(戦国合戦絵巻 ダイヤプレス)

織田家の鉄砲隊の要として、そして「調略の大家」として長きに渡って織田家を盛り立てた一益。

私は軍事能力が高く、
調略能力も高い・・・

実は、忍びの出身だから、
その方面の部下も多い・・・

「攻めるも滝川
退くも滝川」と言われたものだ・・・

織田家の四天王の他の武将たちと比較すると、やや地味な存在の滝川一益。

織田四天王(Wikipedia)

柴田勝家の北陸方面軍を皮切りに、明智光秀・羽柴秀吉たちも前線へゆきます。

その中、遊撃隊的な立場で「各方面を回ってきた」一益。

それゆえに、「滝川一益が中心となった目立つ武功」が少なかったのです。

戦国大名 織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

それは、織田信長の合理的発想によるものでした。

一益の奴は、
軍事に調略にと・・・

非常に多岐に渡り、
高い能力を有する・・・

さらに、柴田勝家・羽柴秀吉はいずれも「アクが強い性格」でした。

特に、柴田勝家と羽柴秀吉の仲の悪さは、織田家中でも有名で、

権六(勝家)と猿(秀吉)は、
互いに譲らぬ・・・

そして、足利家から織田家に転籍した明智光秀に対しては、

光秀は、そもそも足利家臣時代は、
将軍家に対し、余と同格と言えぬでもない存在だった・・・

第十五代足利将軍 足利 義昭(Wikipedia)

1568年に足利義昭を奉じて、上洛した信長。

比較的早く、足利義昭との仲はこじれ、揉め続けます。

1572年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

信長は、足利幕府の中で、
ワシの家臣だろう!

1573年に、やっとのことで足利義昭を追放するも、足利義昭は「将軍のまま」でした。

これからは、
信長様に仕えます・・・

「足利から織田に乗り換えた」光秀ですが、「足利将軍体制」においては、「信長と光秀は同格」です。

追放し、「事実上、足利幕府が消滅」したと言っても、まだ足利義昭は「現将軍であり、本人もそのつもり」でした。

元々、「織田の人間」ではない、
光秀には、若干の距離感を感じる・・・

のが実情だったでしょう。

名前生年(一部諸説あり)
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
織田信長1534年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家方面司令官の生年

その中、信長より年上で、それほど極端な性格ではなく、極めて有能だった一益が「安定感」があります。

一益は、各方面の
援軍に行かせるのが、最も良い!

一益ならば、前線のワシの部下たちと
トラブらずに、大きな戦功を上げるだろう!

滝川一益には、織田信長の多大な期待がかけられました。

まさに「多岐に渡る高い能力とマイルドな性格」の点で抜群の武将だった一益。

どこにでも、
私が援軍にゆき、敵に打撃を与えます!

一益もまた、大いに期待に応えてきたのでした。

東国を従える関東管領へ

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

長年「遊撃隊」だった一益に対して、

そろそろ、一益に
方面軍司令官を任せよう!

こう考えた信長は、

一益に大いなる武功を
与えるために、武田討滅戦を任せる!

はっはー!
お任せを!

そして、「長年の織田家の敵」武田討滅戦で巨大な戦功を挙げた一益は、一気に地位が上がりました。

後世では地味に扱われている滝川一益ですが、早い時期から宿老の地位にありました。

本能寺の変の際は、滝川一益は職位としては柴田勝家と同様にかなり重いものでした。

羽柴・明智と「肩を並べる」というよりも、羽柴・明智よりも「かなり上」の立場であったでしょう。

当時の滝川一益を、取り巻く状況です。

1582年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

この地図を見て分かりますように、織田家にとって滝川一益のいる上野は「アウェーすぎる」場所にあります。

まさに織田家にとって「縁もゆかりもない土地」です。

一益には関東管領を
任せよう!

ははっ!

実際に滝川一益が「正式に関東管領に任命されたかどうか」は諸説あります。

信長にとっては、

関東管領など
どうでも良い!

のが現実でしたが、関東の諸将・武士たちをまとめ上げるには権威は大事です。

大変な出世をした滝川一益。

50万石ほどの所領に加え、事実上、北条家などを寄騎に従える大きな存在へと出世しました。

大変な出世だが・・・

随分田舎に
来させられてしまった・・・

本能寺の変が起こった1582年6月。

この時は、武田家を滅亡させた同年3月から、たかだか3月しか経過していません。

信長に命ぜられ、上野に「関東管領的立場」で入国した滝川一益。

一生懸命、
上様に尽くしてきたのに。

こんな田舎に
飛ばされてしまった・・・

なにはともあれ「東の押さえ」「東国の王」として、奮って入国したでしょう。

後北条氏は、織田家に従属的立場でした。

関東平定・上杉氏を南から圧迫した後に奥羽へと攻め上ってゆくことをイメージしていたかもしれません。

猛将・滝川一益が感じた織田家の将来:滝川家再編成と北条家

戦国大名 北条氏政(Wikipedia)

大大名たる北条氏が、滝川一益の寄騎的立場であれば関東平定はすぐです。

関東の覇王である、
我が北条家が・・・

新興の織田の下に
つかねばならぬとは・・・

しかも、事実上は
滝川一益の下か・・・

大きな合戦をするまでもなく、佐竹他の諸大名も従属を申し出てくるでしょう。

小大名・武田家臣 真田昌幸(Wikipedia)

武田家の家臣であった真田昌幸もまた、滝川一益の寄騎となっていました。

そして、奥羽の伊達も織田家と比較的友好的立場でした。

残るは上杉ですが、こちらは柴田勝家率いる北陸方面軍だけでも十分で、一益が出撃する必要もなさそうです。

織田家重臣 柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

近畿圏の伊勢を領していた滝川家にとって、関東は「田舎」と言えば田舎。

一方で、鎌倉幕府があった「由緒ある土地柄」でもあります。

関東管領上杉憲政が領していた上野国は、文化的レベルも高かったのです。

そして、隣国武蔵は事実上2位の石高を持つ豊穣な土地柄です(広大な陸奥を除く)。

戦国期の国別石高(歴史群像シリーズ 1 織田信長 学研)

真田昌幸たちの新たな寄騎を迎えた滝川一益。

新たな滝川軍を
編成するのだ!

織田家を支えるために、領国移動と共に、家中の再編成を考えていたでしょう。

「新たな滝川家」を
つくるのだ!

信長よりも高齢だった滝川一益。

やっと
ここで一息つける

内心思っていたでしょう。

自らが苦闘する戦場にはもう出ることはなく、安寧な気持ちで眺めていたかもしれません。

猛将としての自分の人生の先を。

中央から一気に「アウェーの地=関東」に来たとは言え、他の諸将も似たような状況です。

長年にわたり一緒に織田家の柱となった盟友とも言える柴田勝家は越中にあり、比較的近いです。

徳川と北条がいれば、もはや自分が何か苦労をすることはなさそうです。

家康殿は、
まだ若くて活発な動きができるだろう・・・

私もだいぶ歳をとったから、
徳川と北条に任せるか・・・

さらに、万一苦戦しても、柴田勝家との共闘も出来そうです。

元亀の頃のような、
死闘はなさそうだ。

もう少しで上様(織田信長)の世となる。
平穏な人生が送れるのだ。

と考えた一益。

そしてその思いは現実となったでしょう。

織田信長と明智光秀(新歴史紀行)

本能寺の変さえなければ。

新歴史紀行

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