地味な滝川一益の出自と年齢〜鉄砲隊と忍び部隊・桶狭間の戦いの滝川一益・軍の最前線で奮闘・遅れた織田方面軍司令官の座・武田討滅戦〜|滝川一益2・出身・出自・性格

前回は「卓越した猛将・滝川一益〜進むも滝川退くも滝川・北伊勢侵攻・調略の滝川・織田四天王と滝川一益〜」の話でした。

滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

地味な滝川一益の出自と年齢:鉄砲隊と忍び部隊

織田四天王:左上から時計回りに柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

四天王の一人 滝川一益は、羽柴・明智・柴田に比べると知名度はだいぶ劣り、地味ですらあります。

本能寺の変後、羽柴秀吉・明智光秀・柴田勝家は、それぞれ雌雄を決しました。

それに対して、「滝川一益が冴えなかった」からでしょう。

滝川は、北条軍に神流川の戦いで敗れて立場が著しく失墜します。

そして、その後、大きな戦績もあげられずに羽柴秀吉に降伏したのが大きな理由でしょう。

「信長の野望」シリーズでも、さほど高い能力を与えていません。

もう少し高い評価でも良いと思いますが、羽柴・明智より、かなり劣る扱いです。

・・・・・

私は織田家の宿老であり続け、
調略・鉄砲隊の要であったのだ!

滝川一益の能力は、実際はどうだったのでしょうか。

鉄砲隊を指揮する滝川一益(戦国合戦絵巻 ダイヤプレス)

織田家勃興期には伊勢へ侵攻し、その後は主要な戦いに多く出陣しました。

そして、鉄砲隊を指揮し、忍びたちをまとめ上げて数多くの功績を挙げました。

1560年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

滝川一益が「いつから織田家に仕えていたのか」は諸説あります。

甲賀出身とも言われる滝川一益。

名前生年(一部諸説あり)
織田信長1534年
柴田勝家1522年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
明智光秀1528年
滝川一益1525年
織田信長と織田家方面司令官の生年

織田信長より9歳年上で、最年長格の柴田勝家よりも3歳年下の滝川一益。

私は、
長年信長様を支え続けたのだ!

出自・出身がよく分からない滝川一益ですが、おそらく早い時期から尾張にいた武士でしょう。

桶狭間の戦いの滝川一益:軍の最前線で奮闘

戦国期の国別石高(歴史群像シリーズ 1 織田信長 学研)

桶狭間の合戦の頃には、「尾張をほぼ統一していた」と言われる織田信長。

実際には、尾張の東の一部は今川義元に切り取られ、元々信長の織田家の地盤でない尾張北部は不安定でした。

太閤検地の石高のデータと、尾張における商業の先進性・津島湊の繁盛から、

桶狭間の頃の織田家は、
今川家と同格の国力があった。

という意見がありますが、家柄も含めて、やはり今川と織田には大きな開きがあったでしょう。

「うつけ」と言われた信長の実態は、「自国の領土をよく知る活動であった」と言う意見もあります。

それらは「うつけの信長」と「戦国最強・天下人の信長」の像が複雑に重なり合った「一つの見方」と考えます。

実際には、当時まだ若く、桶狭間の戦いの頃に26歳だった信長。

総合的な国力は、「今川家は織田家の2〜3倍程度あった」と考えるのが現実的と思います。

桶狭間の戦いの頃に、壮年であった35歳ほどの一益。

「どのように戦ったか」が、信長公記などにも記載されてなく、不明です。

信長公記(Wikipedia)

推測するしかありませんが、おそらく滝川一益も柴田勝家と同等の重きをなして、働いたでしょう。

私は、
自ら陣頭に立って、今川と戦ったのだ!

「織田家総力戦」とも言える桶狭間の合戦。

ここでは後の織田家のスターたちが、自ら槍を持ち信長と共に奮戦したと考えます。

そして、それらの「陣頭指揮」の連戦が織田家の将軍たちの軍事能力を高めたのでしょう。

遅れた織田方面軍司令官の座:武田討滅戦

1568年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

北伊勢を調略等で落として、活躍した滝川一益。

その後は、柴田・明智・羽柴たちと比較して、遊軍的な存在であり続けました。

その滝川一益に、大役が命令されました。

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

信忠を
補佐し、武田を討滅せよ!

ははっ!
お任せを!

1582年の武田侵攻戦では、信長の長男の織田信忠を補佐しました。

そして、事実上の最高指揮官として辣腕を振るって武田勝頼を討滅します。

私が7万人ほどの
織田軍の総司令官なのだ!

戦国大名 武田勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

その後、関東鎮撫役(関東管領的立場)となり、織田家の東国差配を任されます。

軍事的能力は際立ち、調略等の智略も高い人物で、早くから宿老として活躍していた一益。

信長は、秀吉同様に出自の分からぬ一益を非常に重視し、重用していました。

一益は
非常に使える!

甲賀出身らしいが、忍者との関係あるのか?
調略がうまい。

見方によっては「大軍を統べる立場」において、滝川一益は他の織田の諸将より劣るかもしれません。

羽柴・柴田・明智・佐久間・丹羽に一歩遅れていたようにも感じます。

羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「退くも滝川、進むも滝川」と
言われたんだぞ!

関東鎮撫役前の一時期、丹羽長秀と共に、遊撃軍的な立場だった滝川。

大軍を率いて「その方面の司令官・王・将軍」のような立場になるのは、少なかった滝川。

総司令官となるのは、1582年の武田討滅戦以前は少なかったように感じます。

一時は織田家最大軍団を率いた佐久間信盛の方が、大軍を統べる事は得意だったかもしれません。

佐久間信盛(Wikipedia)

お前は、
いらない!

えっ・・・

織田政権末期に、突然追放された佐久間信盛。

この異例・異常事態もまた、「本能寺の変の一因」でしょう。

そのため、彼に対する評価は非常に低いですが、尾張勃興期から信長を支え続けてきました。

その後、一時は織田家最大の軍団を支配した佐久間信盛。

実際には、佐久間信盛の軍事能力は相当高く「織田四天王同等」であったと考えます。

そして、軍事・調略等「卓越した個人的能力」の一方で、秀吉・勝家よりも軍団長格になるのが遅かった滝川。

佐々成政(歴史人2016年12月号 KKベストセラーズ)

大人数を率いる力量面としては、佐々成政等と似た特性を持つ武将のようにも感じられます。

「遅れた司令官」滝川の実像を、彼の軍歴から考えてゆきたいと思います。

新歴史紀行

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