前回は「米内内閣をあっさり倒閣した帝国陸軍〜「陸軍総意」に押された畑俊六・昭和天皇が「米内総理」相談した伏見宮・戦前の「宮様」の超絶影響力〜」の話でした。
昭和天皇「永野総長更迭」要請却下した及川大臣:「之はいかん」海軍計画

米内光政陸軍大臣は近時の政情に鑑み、
辞表を出したので。



と率直に倒閣の責任が
陸軍にあることを明らかにした。
戦前から戦時中にかけて、長い期間、海軍大臣を務め、昭和天皇の信任厚かった米内光政。
満を持して米内光政は内閣総理大臣となりましたが、たった半年ほどで内閣は崩壊してしまいました。
更に、「米内内閣の崩壊」は、「陸軍大臣が辞任し、陸軍が後任陸軍大臣を出さなかった」ことでした。
こんなに簡単なことで、あっと言う間に倒閣してしまうほど不安定だった戦前昭和の日本。


今回は、少し時代の先に行き、対米戦直前の1941年9月6日の御前会議の話です。



確か、八月(1941年)の初旬か、
或いはその少し前か・・・



永野(修身)軍令部総長が
戦争の計画書を持参した。


日米戦直前の時期、妙なほどに「対米強硬派」だった永野総長。



米国の十月の軍配備状態を予想して、
これに対する攻撃の計画である。



私は之を驚いて、
之はいかんと思い・・・



その後、及川に対し、軍令部総長を取り替える
ことを要求したが・・・





及川は、



それは永野の説明の言葉が
足らぬ為だから、替えぬ方が良い。



と言うので、
そのままにしたが・・・



九月五日午後五時頃に、
近衛が来て、明日開かれる御前会議の案を見せた。
昭和天皇が「軍令部総長更迭」を要求したものの、あっさり及川大臣は之を却下しました。
昭和初期から、猛虎のように暴れ回っていた帝国陸軍は、全く昭和天皇の意思を無視しました。
「穏健派」と呼ばれる帝国海軍でしたが、昭和天皇は帝国海軍にも懸念を示していました。
「計画案を否定」した昭和天皇に対し、「言葉不足」と話を変えた及川大臣。
ある意味で「切り返しが上手」でしたが、本質から目を逸らしただけ、でした。
昭和天皇に近衛総理「それは無理です」:「別格公家」近衛家と天皇


後世の視点から見れば、この翌月には内閣を投げ出すように辞任した近衛文麿総理。
九月五日午後五時頃、参内し、翌日の御前会議の議案を昭和天皇に提示しました。



明日の御前会議の
計画案で御座います。



之を見ると、意外にも第一に戦争の決意、
第二に日米交渉の継続、



第三に十月上旬頃に至るも交渉の
纏まらざる場合は開戦を決意す、となっている。



之では、戦争が主で交渉は従であるから、
わたしは近衛に対し、



交渉に重点を置く案に改めんことを
要求したが、近衛は、



それは
不可能です。



と言って
承知しなかった。


大日本帝国憲法において、天皇は絶対的存在でした。
ところが、昭和天皇が「案の改訂」を要求しても、近衛総理は、あっさり否定しました。
この状況は、なんとも理解できない異常事態でした。
御前会議に関して、戦後、昭和天皇は「形式的だった」と独白しました。
昭和天皇の御前会議に対する独白を、上記リンクでご紹介しています。
当時の大日本帝国の最高意思決定の手続きであった、御前会議の「天皇の裁可」という手続き。
ところが、「天皇の裁可」は「天皇の追認」に近い状況でした。
そして、昭和天皇が「案の改訂・変更」を求めても、変更できなかった事実。
この後、三度目の内閣を組閣し、長年、昭和天皇に極めて近い存在だった近衛総理。
| 名前 | 生年 | 役職 |
| 杉山 元 | 1880 | 参謀総長 |
| 永野 修身 | 1880 | 軍令部総長 |
| 及川 古志郎 | 1883 | 海軍大臣 |
| 東條 英機 | 1884 | 陸軍大臣 |
| 近衛 文麿 | 1891 | 総理大臣 |
| 昭和天皇 | 1901 | 天皇 |
年齢も最も昭和天皇に近く、近衛文麿は昭和天皇の十歳上でした。
| ランク | 家格 | 家 |
| 1 | 摂家 | 近衛・一条・九条・鷹司・二条 |
| 2 | 清華家 | 三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・菊亭 |
| 3 | 大臣家 | 正親町三条・三条西・中院 |
| 4 | 羽林家 | 姉小路・冷泉・四条・正親町・持明院・ 今城・堀河・岩倉・綾小路・久世など |
| 5 | 名家 | 烏丸・坊城・梅小路・日野・北小路など |
| 6 | 半家 | 竹内(清和源氏)・西洞院家(桓武平氏)など |
そもそも、「公家の中の公家」である「別格公家」であった近衛家。
明治維新によって、最初の太政大臣となった三条実美の三条家とも「格違い」の存在でした。
近衛の「辛抱弱い」性格を理解しながら、近衛をずっと、ずっと頼りにし続けた昭和天皇。



それは
不可能です。



・・・・・
もはや「対米戦前提」のような案が突然出てきて、驚愕した昭和天皇。
天皇・大元帥として、国家を統括しなければならない立場であり、「対米戦ストップ」を指示しました。
そもそも、ずっと前から「対米戦は、してはならない」と主張し続けていた昭和天皇。
信頼し続け「近衛が総理として全てを見ているならば」と、ある程度は安心していた昭和天皇。
大日本帝国の国家元首であり、「神聖不可侵」の存在であり、帝国陸海軍を統帥する大元帥だった昭和天皇。
その昭和天皇に対して、「サジを投げる」かのような対応をした近衛文麿首相。
この近衛の返答を聞いた時、昭和天皇は、どのような思いだったのでしょうか。



・・・・・
そして、この「九月五日の御前会議案」の約三ヶ月後に「真珠湾」となりました。


