大日本帝国の運命決めた「蒋介石との妥協」〜不変の昭和天皇の言葉・「支那事変解決」模索していた昭和天皇・「一ヶ月」明言した杉山大臣〜|昭和天皇独白録13・昭和の真実

前回は「昭和天皇の「・・しよ〜」という強力な決意〜日本の歴史に太い筋を入れる「昭和天皇独白録」・最重要時代「昭和」・支那事変と三国同盟〜」の話でした。

目次

大日本帝国の運命決めた「蒋介石との妥協」:昭和天皇の意思を表す言葉

新歴史紀行
蒋介石 中国国民政府主席(Wikipedia)

1937年、正に「泥沼化」を超えて「超泥沼化」していた日中戦争。

そもそもは大日本帝国が支那(中国)に対して、一方的に侵略したのが支那事変でした。

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昭和天皇独白録(文藝春秋)

昭和天皇は、当時の支那事変から、日米戦争に至る経緯を明確に整理した語っています。

昭和天皇

私はなんとかして、
蒋介石と妥協しよー(ママ)と思い・・・

昭和天皇

杉山(元)陸軍大臣と
閑院宮参謀総長を呼んだ・・・

蒋介石と妥協をすることを大本営・帝国政府に命じようとした昭和天皇。

昭和天皇

丁度この頃北満の国境に
カンチャズ島事件が起っていたので・・・

「カンチャズ島事件」は、小さな事件でしたが、ソ連軍軍艦を関東軍が撃沈した事件でした。

つまり、1937年頃、満洲付近で、大日本帝国とソ連が紛争を続けていたことを物語っています。

昭和天皇

世間へは、この為に呼んだものと
「カムフラージ」されたが・・・

昭和天皇

実は、対支意見を求める為に
呼んだのである・・・

ここで「カムフラージュ」を、当時昭和天皇が語った「カムフラージ」と記載している点も大事です。

昭和天皇独白録

昭和天皇が当時語った
言葉をそのまま記載します・・・

これは「昭和天皇の言葉」への尊重であり、言葉の微修正は「無用であり不敬」と考えているのでしょう。

「支那事変解決」模索していた昭和天皇:「一ヶ月」明言した杉山大臣

新歴史紀行
近衛文麿 内閣総理大臣(Wikipedia)

丁度この頃、総理大臣であったのが近衛文麿です。

ランク家格
1摂家近衛・一条・九条・鷹司・二条
2清華家三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・菊亭
3大臣家正親町三条・三条西・中院
4羽林家姉小路・冷泉・四条・正親町・持明院・
今城・堀河・岩倉・綾小路・久世など
5名家烏丸・坊城・梅小路・日野・北小路など
6半家竹内(清和源氏)・西洞院家(桓武平氏)など
公家の家格・家柄とランク(新歴史紀行)

公家の中で「別格」とされたのが、「五摂家」と呼ばれる五つの家でした。

さらに「五摂家」の中でも、筆頭だった近衛家。

明治から昭和の時代には、「近衛兵」という皇居を守る軍隊・兵隊がいました。

このことからも、「筆頭中の筆頭」であることが分かる近衛文麿。

三度組閣した近衛文麿は、この頃は一回目の第一次近衛内閣でした。

昭和天皇

若し陸軍の意見が私と
同じであるならば・・・

昭和天皇

近衛(文麿)に話して、
蒋介石と妥協させる考であった・・・

この頃、「支那事変不拡大派」であった近衛総理は、陸軍を止められませんでした。

近衛文麿

支那事変は、
ある所で止めるべきだ・・・

後に、対米戦開始の頃に、参謀総長であった杉山元は、1937年頃は陸軍大臣でした。

杉山元

支那を
叩き潰すのだ!

当時の陸軍省は、異様なほど「支那事変拡大派」でした。

諸説ありますが、当時の参謀本部(陸軍)は、「支那事変不拡大派」が一定数いたようです。

昭和天皇

これは満洲は田舎であるから、
事件が起こっても大した事はないが・・・

昭和天皇

天津北京で起こると必ず
英米の干渉が非道くなり・・・

昭和天皇

彼我衝突の虞が
あると思ったからである・・・

昭和天皇は、「満洲あたりならば、多少の武力衝突は良い」と考えていたようです。

ここで、興味深い表現は「非道く=ひどく」です。

「ひどくなる」という言葉は、一般的には「酷くなる」が多いですが、「非道く」もあります。

この「非道く」は、対象に対して「非道である」意味も含んでいると思われます。

昭和天皇

当時、参謀本部は事実、石原莞爾が
采配を振つていた・・・

昭和天皇

参謀総長と陸軍大臣の
将来の見通しは・・・

昭和天皇

天津で一撃を加へれば、
事件は一ヶ月内に終るといふのであった・・・

この件は、後に杉山陸軍大臣が、対米戦の頃に参謀総長の時に、昭和天皇に叱責されることになります。

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近衛文麿「平和への努力」(近衛手記、日本電報通信社、新歴史紀行)

「近衛日記」と呼ばれる「平和への努力」などの書籍にも記載されている、この「一ヶ月」問題。

手記などの表現では、「杉山陸軍大臣の独断」のようにも感じられます。

ところが、昭和天皇の独白によると、参謀総長も「同意見の一ヶ月」だったことが分かります。

ただし、この時の参謀総長は閑院宮載仁親王であり、「お飾り」の傾向が強い人事でした。

いずれにしても、この頃、昭和天皇が「支那事変解決」の考えを持っていた事実は、重要です。

昭和天皇

これで暗に私の意見とは
違っていることが判ったので・・・

昭和天皇

遺憾ながら、妥協のことは
云い出さなかった・・・

大日本帝国憲法上、明らかに「国家のトップ」であった昭和天皇。

ところが、昭和天皇が「支那事変解決推進」を考えていても、そうはならなかったのでした。

新歴史紀行

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