前回は「若き長尾景虎を甘くみた武田信玄〜肥沃な地である信濃獲得へ・甲斐の倍の国力持つ信濃・痛恨の打撃を受けた武田家・家臣若返りへ〜」の話でした。

川中島の戦いの真相:「売られた喧嘩」を買わざるを得なかった景虎

武田信玄と上杉謙信という「虎と龍が死闘を尽くした」川中島の戦い。
まさに景虎にとっては「売られた喧嘩」でした。

信濃全土を制圧して、武田家の経済基盤を
確立するのだ!



武田が川中島に
攻め込んできただと・・・
戦国の世ならではの「頼れる主君」であるためには、「決して黙って引き下がるわけにはいかない」戦いでした。



村上義清は、
私を頼って落ち延びてきた・・・
ここで信玄が「頼ってきた村上義清領」を蹂躙し、景虎の本拠地・春日山城のすぐ近くに攻め込んできました。
もし、ここで景虎が、



武田の力は強いから、
今は手出しできん・・・
と「信玄の北信濃侵攻を見送る姿勢」を出せば、
長尾景虎は、
イマイチ頼りないな・・・
あいつに従っていて、
大丈夫なのか?
という風評が立ってしまい、戦国大名としての地盤が揺らいでしまいます。
しかも、揚北衆など「不穏分子」が根強く存在していた越後では、
守護代の長尾なんか、
大したことないぜ!
という連中が沢山いました。



とにかく、
武田を北信濃から追っ払わねば!
景虎(上杉謙信)にとっては、「買わざる得ない喧嘩」であったのでしょう。
景虎の川中島への強い思い:かつて長尾領であった川中島


景虎が川中島防衛に必死になる理由は他にもありました。



旧村上領であり、越後守護代である
我が長尾家が治めた時もある川中島!
国境やエリアが現代ほど明確でなかった当時。
「どの守護・守護代がどこを治めているか」の境界は曖昧な面がありました。
それでもなお「川中島はかつての越後守護代・長尾家の領土」という説もあった当時。



とにかく、北信濃まで
信濃全土制圧!
と乗り込んできた信玄に対して、若き景虎は猛烈に燃えました。
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |



川中島を支配するのは、
武田ではないわ!
そして、戦意・テンションは、長尾家の方がむしろ高かったのでしょう。



我が長尾家の
防衛線だぞ!
長尾景虎、そして彼が率いる柿崎景家らの戦闘能力を適正に見破ることができなかった信玄。
それもまた致し方ないことでした。
まだ若く、軍事能力もよく分からない長尾景虎に対して、9歳年上で、急速に領土を広げていた武田晴信。



我が武田家は、
長年の戦いを勝ち抜いてきた!



我が武田家は、少なくとも、
関東甲信地方では最強なのだ!



長尾景虎・長尾家のことは
調べている。



しかし、まだ景虎のことも、
長尾家のことも情報不足でよく分からぬ。
まだまだ若造だった信玄:長尾家の防衛戦


まだ若く、それほど多くの合戦を経験していなかった長尾景虎。
しかも当主となる前は、景虎の兄の長尾晴景が越後守護代を継ぎました。
晴景が継いだものの、あまり武士らしくない晴景に対して、国内で反乱が続いた越後。
晴景よりも、弟の景虎の方が守護代として、
マシなのでは・・・
晴景殿には引っ込んで頂いて、
景虎殿に守護代になっていただこう・・・
もともと反乱意識の強い越後は、「バラバラな国」でした。
それでも、「守護代がしっかりせねば、自分達の立場が危うい」と感じだ国衆が、弟・景虎を担いだのです。
そして、19歳の時に家督を継いだ景虎。



まだ若造で、
私の敵ではあるまい・・・
「武田・長尾の領土争い」と言うよりも、「武田の侵攻戦・長尾(上杉)家の防衛戦」という側面が強い川中島の戦い。
長尾景虎にとって、事実上従属・配下となった村上義清の旧領土は「長尾家の領土」に近い状況です。
その川中島を武田に攻め込まれたら、黙ってみている訳にはいきません。
また村上義清に頼られたことによって、「頼りになる大将」であることを内外に喧伝するためには、



この戦いに
勝たないわけにはいかぬ!
「売られた喧嘩」は買わざるを得なかったのでしょう。



とにかく、私が「頼りになる」ところを
諸将に見せなければならん!
9ほど年齢が上の信玄に対して、景虎は激昂して、凄まじい勢いで川中島へ乗り込んだに違いない。



我が長尾を
舐めるな!
そして、その若き景虎に対して、信玄は「大人びた姿勢」で、



お前に「合戦とは何か」を
教えてやろう!
という姿勢で臨んだのでしょう。
この意味では、のちに老成化した戦略家となった信玄もまた「まだまだ若造だった」のでした。