武田信玄 6〜景虎を甘くみた信玄 2〜|戦国武将

前回は「武田信玄 5〜景虎を甘くみた信玄 1〜」の話でした。

武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

武田晴信(信玄)が父 信虎を追放し、家督を継いだ頃の信濃。

信濃には、多数の小大名・国衆が割拠していました。

それは、多くの国でも同様でしたが、信濃は山国であったことが大きな理由です。

「山で領土・地域が分けられる」傾向があり、「この地域は我々の領土」と主張しやすかったのでしょう。

平地の多い関東地方とは、大きな違いです。

まだ新興勢力だった1507年頃の、関東地方の各勢力図です。

関東勢力図:1507年頃(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

上野・下野などは山が多いものの、信濃に比べたら平地が多いです。

そして、村上義清、小笠原長時、諏訪頼重など、領土・石高はそれほど大きくない多数の小大名・国衆たち。

石高が小さいものの、家中の統制が取れた当主・家臣・兵卒、いずれも強力な様々な国人が大勢いた地域でした。

甲斐は固めた。

しかし、
甲斐は生産力が小さい・・・

我が武田家が成長するには、
他国を侵略するしかない!

そこに晴信(信玄)は、甲斐に倍する大きさ・石高を持つ信濃占領を目論見ます。

晴信は、信濃に一方的に攻め入ります。

手こずりながらも、信濃攻略を順調に進める晴信。

我が武田家は、
強いぞ!

ここに登場したのが、北信濃の強豪だった村上義清です。

非常に強いという名声のあった村上義清。

南信濃から領土を拡大し、勢いに乗じて信玄は、北信濃に進行します。

村上義清は強敵らしいが・・・

我が武田家の
敵ではないわ!

しかし、晴信は村上義清から猛烈な逆襲を受け、重臣の板垣信方・甘利虎泰を失います。

板垣・甘利という、
武田の二つの柱を失ってしまった・・・

村上義清を甘く見すぎた・・・

晴信に一度は、痛撃を与えた村上義清。

板垣・甘利の弔い合戦だ!

最終的に、村上は軍勢が多く、優れた武将の多い武田に敗れてしまいます。

そして、南から攻められたこともあり、北に逃げます。

上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

北にいたのは、越後の長尾景虎(謙信)。

村上義清は、景虎を頼って逃げます。

頼られたら、私は保護する。

私は義に厚いのだ。


関東・甲信勢力図 1555年(歴史人 2020年11月号掲載図から一部抜粋


まだ村上家の影響力が残っていた1550年半ば。

形式的には武田領でしたが、村上義清が頼った先の長尾(上杉)領であったと考えられます。

村上義清は、我が長尾家の客将だ。

また、甲斐守護として「公式に甲斐の主」と認められていた武田家に対して、越後守護代であった長尾家。

守護代は「守護に代わって、管轄する」ので、家格としては武田家より落ちます。

家柄は武田の方が上かもしれんが、
関係ない。

川中島周辺は「越後守護代たる長尾家の管轄エリアであった」という説もあります。

北信濃は、もともと我が長尾家の管轄だ!

この管轄エリアに関しては、当時の国の境がどの程度明瞭であったか不明です。

さらに、支配していた村上義清を保護した以上、
長尾家が北信濃を有するのだ。

そもそも信濃と越後の国境がどこか、も明確ではありません。

その中、乗り込んで、一方的に攻め込んで行ったのは晴信です。

信濃全土を武田家のものに!

おい、何
勝手なこと言ってるんだ!

景虎にとっては、明らかな「防衛戦」だったのでした。

第四次川中島の戦い(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

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