前回は「武田信玄 1〜目指した中世再興の先〜」の話でした。

上杉謙信との戦いを優先した武田晴信(信玄)。
晴信は、織田信長とは長く友好関係にありました。
晴信なりの「軍略」だったのですが、結果的には大きく裏目に出ました。

武田家から見たら格下扱いであった織田家が想定外の猛烈なスピードで、その版図を広げました。
桶狭間の合戦の頃(1560年)には、織田家にも優れた家臣が大勢いました。
すでに秀吉も家臣でしたが、まだまだ下っ端です。

優れた武将が大勢いた織田家でしたが、家臣団の厚みとしては武田家には遠く及ばないレベルでありました。

織田家家臣団は信長の異常なまでの抜擢により、徐々にそして急速に厚みを増してゆき、武田家を凌駕してゆきます。

生産高の低い甲斐において、なんとか生産量を高めようと、治水など内政にも多くの功績を残した晴信。

経済力をつけ、民衆達に健やかに住んでもらわねば、
国がなりたたぬ。
その魔術的な采配能力と異常なまでの騎馬軍団の強さによって、周辺諸国から恐れられ続けた、武田晴信及び武田家。


入道後、信玄となった晴信は、死期を悟り最後に京へ乗り込もうと、西上作戦を敢行します。
そして、三方ヶ原合戦において徳川・織田連合軍を完膚なきまでに粉砕します。
その瞬間、武田家の輝きは頂点に達し、戦国の世に強烈な光芒を放ちます。
しかし、三方ヶ原合戦直後に信玄が亡くなります(病死、徳川家による射撃の傷など諸説あり)。


信玄亡き後、後継者(正式な当主ではない)勝頼は勇猛な人物で、一時は信玄を超える版図を築き上げます。
しかし、1575年の織田・徳川軍との長篠の合戦における致命的大敗北を受け、数多くの宿将が戦死します。


その後、信じられない勢いで急速に衰退した武田勝頼率いる武田家。
三方ヶ原合戦10年後に、織田家による滅亡を迎えます。
この衰退こそ、武田晴信の最大の大誤算であったのでしょう。