盤石の武田家を築いた武田信玄の軍略〜越後の龍との死闘・神がかりの軍神長尾景虎・武田典厩信繁の戦死〜|武田信玄3・人物像・軍事能力

前回は「武田信玄が目指した軍略の先〜上杉謙信との死闘・甲相駿三国同盟・武田家と織田家・西上作戦と武田家滅亡〜」の話でした。

目次

盤石の武田家を築いた武田信玄の軍略

戦国大名 武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

今回は、越後の龍:上杉謙信との死闘となった「川中島の戦い」です。

甲斐から信濃に侵攻し、村上義清から痛撃を受けながらも、信濃のほぼ全土を制圧した信玄。

1554年には相模:北条氏康、駿河・今川義元と、の甲相駿三国同盟を結びます。

お互いの利害が、ガッチリ組み合った結果でした。

甲相駿三国同盟(歴史人 別冊「戦国武将の全国勢力変遷地図」)

これで、我が背後を攻めてくる可能性が
あるのは・・・

美濃・斎藤家と
飛騨・三木家か姉小路家しかない・・・

この甲相駿三国同盟が成立した1554年には、斎藤道三が長男・義龍に家督を譲っています。

戦国大名 斎藤道三(Wikipedia)

義龍よ・・・
家督をそなたに譲ろう・・・

戦国大名 斎藤義龍(Wikipedia)

ははっ!
お任せを・・・

代替わりした斎藤家ですが、翌1555年には道三と義龍が決裂し、道三が敗死しました。

どうも、美濃は
道三と義龍の関係がしっくり行っていないらしい・・・

情報を重視していた武田信玄は、この「斎藤家の実情」を把握していたでしょう。

斎藤家では、近い将来
内紛が起こるだろう・・・

斎藤家は、とても我が武田に
攻め込んでくる状況にはなさそうだ・・・

そして、飛騨の勢力に対しては、

飛騨の三木・姉小路は、
どうでも良い・・・

が本音だったであろう信玄。

魔術的な采配能力と極めて優れた家臣団に、非常な強さを見せつける騎馬隊をはじめとする軍隊。

武田家と正面切って敵することは、当時非常に大きな困難と考えられていました。

武田二十四将(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

越後の龍との死闘:神がかりの軍神・長尾景虎

戦国大名 上杉謙信(長尾景虎)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そこに一人の若者、神がかりの軍神が武田家に対抗しました。

若き越後の龍:長尾景虎(上杉謙信)です。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
上杉謙信1530年
織田信長1534年
戦国武将大名の生年

信玄より9歳若い長尾景虎は、信玄から信濃を追われた村上義清を保護し、武田家と鋭く対立します。

信玄めに、
追われました・・・

お助けを・・・

よかろう!
我が長尾景虎に任せよ!

さらに関東からは、関東管領たる名家の上杉憲政が、北条家に追われて景虎を頼ります。

北条に
追い立てられました・・・

あなたしか
頼るところがない・・・

この長尾景虎に
全てお任せを!

関東勢力図 1555年頃(歴史人 2020年11月号掲載図から一部抜粋)

色々な人から、
頼られるな。

私の評判が
良いからかな。

ここで、景虎は「関東管領・上杉家を救う」大義名分を掲げ、関東に乗り込んだ長尾景虎。

関東勢力図 1561年頃(歴史人 2020年11月号掲載図から一部抜粋)

北条家に大きなダメージを負わせて、意気揚々となります。

北条は
木端微塵にした!

次は
武田だ!

大いに意気込む景虎。

それはまた、「若さゆえの強さ」でもありました。

北条に大打撃を与え、勢い込んだ景虎は、

私の名前を変え、
上杉政虎となった!

次は、村上義清を
追った武田を潰す!

名前を変えて、信玄に挑みます。

なんだ、
この若造は?

歴戦の軍略家である武田信玄からみれば、その程度の認識だったでしょう。

私は、
甲斐守護の武田晴信だ!

お前は、
越後守護ではなく、守護代だろう!

格下なんだから、
身分わきまえろ!

ふふふっ!
私は越後守護代ではあるが・・・

私は関東管領
でもあるのだ!

関東管領だと!
それは関東の話だろう!

ここは、甲斐と信濃だから、
関係ない!

江戸時代末期まで、関東に「甲斐を含む」考え方もあります。

一方で、明確に「関東ではない」信濃に、乗り込んできた景虎。

戦国随一の軍略家であり、多くの戦績・功績がある信玄。

彼には、人生最大の失敗がありました。

それは、「長尾景虎を相手にしすぎた」点でしょう。

関東管領は、
関東の守りをしていれば良いのだ!

仕方ない・・・
小僧を叩き潰して見せよう・・・

数度の川中島の合戦で多くの有能な将兵を失ったことは、信玄にとって大きな損失でした。

最大の損失は、激戦であった第四次川中島合戦で、弟の典厩信繁を戦死させてしまったことでした。

武田家の要:武田典厩信繁の戦死

武田家臣(弟)武田信繁(Wikipedia)

小さい頃から、とても出来が良かった弟・武田信繁。

父・信虎は、生意気な晴信(信玄)ではなく、信繁を可愛がり、後継者にしようとしたほどでした。

ところが、

家を継ぐのは、
長男です!

私は
兄上を支え続けます!

信繁・・・
有難う・・・

この「兄を支えて、一歩引く弟」にして、極めて優れた軍事能力を有した信繁。

人格的にも立派であり、武田家中の要でした。

ところが、第四次川中島合戦では、作戦のミスから上杉軍に押されまくった武田家。

ついに、信玄の本陣すら危うくなりました。

むう・・・
景虎のやつめ・・・

兄上!
景虎の猛攻は私が食い止めます!

早急に体勢を
立て直しください!

信繁様!
お命が危険です!

兄上を守るのだ!
ぐわっ!

そして、ついに信玄の実弟である信繁が戦死するという「最悪の事態」に発展しました。

お館様!
典厩信繁様、お討死!

な、なにっ!?
信繁が・・・・・

信繁が
死んだ・・・・・

武田信玄、最大の誤算・失策となりました。

武田信玄と上杉謙信が総力を上げて戦った川中島の戦いは、合計5回行われました。

双方が睨み合ってばかりで、戦らしい戦は対して行わずに終わってしまった場合もありました。

武田信玄の軍師と言われる山本勘助(実態は諸説あり)。

山本 勘助(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

第四次川中島合戦では、勘助進言の啄木鳥戦法が謙信に裏をかかれ、武田軍は総崩れ状態となります。

「武田信玄と上杉謙信が一騎討ちをした」錦絵もあります。

この絵は後世の創作ですが、それを感じさせるほど、激烈な戦いであったと思います。

第四次川中島の戦い(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この戦いでは、諸角豊後守などの優れた勇将が大勢戦死しました。

なかでも信玄の弟で、極めて優秀かつ人望も厚かった、非の打ちどころのない武田信繁。

信繁が討ち死にしたのは、武田家のその後に極めて悪い影響を与えました。

文武に優れただけでなく、信玄に万一のことがあった時に、武田家を引き継ぐべき武田信繁。

信繁を失ったことは、信玄にとってのみならず、武田の家に」取り返しのつかない甚大な損害」となったのでした。

新歴史紀行

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