武田信玄 3〜越後の龍との死闘〜|戦国武将

前回は「武田信玄 2〜目指した軍略の先〜」の話でした。

武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

今回は、越後の龍:上杉謙信との死闘となった「川中島の戦い」です。

甲斐から信濃に侵攻し、村上義清から痛撃を受けながらも、信濃のほぼ全土を制圧した信玄。

1554年には相模:北条氏康、駿河・今川義元と、お互いの利害がガッチリ組み合った結果の甲相駿三国同盟を結びます。

甲相駿三国同盟(歴史人 別冊「戦国武将の全国勢力変遷地図」)

魔術的な采配能力と極めて優れた家臣団に、非常な強さを見せつける騎馬隊をはじめとする軍隊。

武田家と正面切って敵することは、当時非常に大きな困難と考えられていました。

武田二十四将(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そこに一人の若者、神がかりの軍神が武田家に対抗しました。

若き越後の龍:長尾景虎(上杉謙信)です。

上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

信玄より9歳若い長尾景虎は、信玄から信濃を追われた村上義清を保護し、武田家と鋭く対立します。

ちょうど関東からは、関東管領たる名家の上杉憲政が、北条家に追われて景虎を頼ります。

関東勢力図 1555年頃(歴史人 2020年11月号掲載図から一部抜粋)

色々な人から、頼られるな。

私の評判が良いからかな。

ここで、景虎は関東に乗り込んで北条家に大きなダメージを負わせて、意気揚々となります。

北条は木端微塵にした!

次は武田だ!

意気込む謙信。

なんだ、この若造は?

歴戦の軍略家である武田信玄からみれば、その程度の認識だったでしょう。

私は、甲斐守護の武田晴信だ!

お前は、越後守護ではなく、守護代だろう!

格下なんだから、身分わきまえろ!

なんだと!

戦国随一の軍略家であり、多くの戦績・功績がある信玄。

彼には、人生最大の失敗がありました。

それは、「長尾景虎を相手にしすぎた」点でしょう。

数度の川中島の合戦で多くの有能な将兵を失ったことは、信玄にとって大きな損失でした。

最大の損失は、激戦であった第四次川中島合戦で、弟の典厩信繁を戦死させてしまったことです。

武田信繁(Wikipedia)

兄上!
景虎の猛攻は私が食い止めます!

早急に体勢を立て直しください!

ぐわっ!

信繁が死んだ・・・・・

武田信玄、最大の誤算・失策となりました。

武田信玄と上杉謙信が総力を上げて戦った川中島の戦いは、合計5回行われました。

双方が睨み合ってばかりで、戦らしい戦は対して行わずに終わってしまった場合もありました。

武田信玄の軍師と言われる山本勘助(実態は諸説あり)。

山本 勘助(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

第四次川中島合戦では、勘助進言の啄木鳥戦法が謙信に裏をかかれ、武田軍は総崩れ状態となります。

「武田信玄と上杉謙信が一騎討ちをした」錦絵もあります。

この絵は後世の創作ですが、それを感じさせるほど、激烈な戦いであったと思います。

第四次川中島の戦い(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この戦いでは、諸角豊後守などの優れた勇将が大勢戦死しました。

なかでも信玄の弟で、極めて優秀かつ人望も厚かった、非の打ちどころのない武田信繁。

信繁が討ち死にしたのは、武田家のその後に極めて悪い影響を与えました。

文武に優れただけでなく、信玄に万一のことがあった時に、武田家を引き継ぐべき武田信繁。

信繁を失ったことは、信玄にとってのみならず、武田の家に取り返しのつかない大きな損害となったのでした。

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