前回は「戦国の世にデビューした織田信長〜「天道に背いた」今川義元の運命・尾張南部の大半を押さえた今川家・信秀が目にかけた山口父子の裏切り〜」の話でした。
「天がついた」織田信長の正面奇襲攻撃:瞬く間の大勝利

歴史に名高い、桶狭間の戦い。
日本の歴史上、様々な「戦い」「合戦」「戦争」がありますが、「桶狭間」の知名度は抜群です。
おそらく、歴史にそれほど詳しくない人でも、「桶狭間」は多くの方がご存知と思います。

信長家臣であった信長公記には、「桶狭間」の流れが、簡潔に、明瞭に記述されています。
信長公記次第次第に人数が減り、
ついには五十騎ほどになった・・・



毛利良勝は、義元を
切り伏せて首を取った・・・
「側面奇襲攻撃」の説が有力であった「桶狭間」ですが、「側面」に関しては一切記載ありません。
筆者は、「正面奇襲攻撃」であったと考えます。
「正面」でも、方法によっては十分に奇襲攻撃になります。
「攻撃されると思っていなかった」ならば、「正面」でも奇襲攻撃になります。



義元は駿河へ教継・教吉両人を
呼び出し・・・



褒美は少しも与えず、
無情にも問答無用と切腹させてしまった・・・



あさましい巡り合わせというか、
因果は歴然・・・



善悪二つの道理は定かで、
天道に背くと恐ろしいことになるものである・・・
信長公記の極めて面白い点は、このように「今川義元の非道」を明記して、因果づけていることです。
「桶狭間」は、織田信長の若々しさと老練さを兼ね備えた戦略+戦術によって、生まれた合戦でした。
そして、どう考えても、信長側に「天がついた」のは事実であり、この説明を牛一はきちんとしています。
「桶狭間」の一連の戦いが終わった後に関して、牛一は続いて記述を続けています。



信長は、馬の先へ今川義元の
首を掲げさせ・・・



急いで帰陣したので、まだ日のあるうちに
清洲に到着した・・・
昼過ぎから開始した「今川本陣への大奇襲」は、瞬く間に終わり、夕方には清洲に帰城した信長。



翌日、首実検を
した・・・



首の数は
三千余りあった・・・
「今川勢四万五千vs織田勢二千」と、記載した太田牛一。
当時の人口を考慮すると、「今川勢四万五千」は「呼称」に過ぎないと考えます。
ところが、「首の数三千」は、リアリティがあると考えます。
実数で「今川勢二万五千程度」としても、猛烈な乱戦+混乱だったため、大勢の今川勢が討たれました。
その数は、実数で「二千〜三千」と思われ、信長公記の記述と一致します。
この辺りの「呼称」と「実数」に関しては、牛一は意図的に記述していると考えます。
「義元の首」を返し「義元塚」築造:大々的勝利宣伝の情報戦略





ところで、義元が使っていた
鞭と弓懸を持っている同朋衆を・・・



下方九郎左衞門という
者が生け捕りにしてして差し出した・・・



信長は、



近頃珍しい
手柄である!



と言って、褒美を与え、
上機嫌であった・・・



その同朋に、義元討ち死に前後の
状況を尋ね・・・



多くの首の一々に誰々と
見知っている名前を書き付けさせた・・・
信長は、捕えた「義元側近」に、首の名前を書かせて、「どのような将が戦死したか」を明確にしました。



この同朋には金銀飾りの
大刀・脇差を与え・・・



義元の首を持たせて
駿河へ送り返した・・・
ここで、「義元の首」は通常ならば「晒し首」にしますが、信長はしませんでした。
それどころか、今川家の本拠地・駿河に送り返した信長。



これには十人の
僧を選んで従わせた・・・
十名もの僧を従わせ、「義元の供養」を明確にした信長。
おそらく、護衛の兵隊は五十名程度はいたと思われます。



清洲から二十町南、
須賀口の熱田に通じる街道に・・・



信長は義元塚というのを
築かせた・・・
さらに「義元塚」をつくり、「義元供養」を明確に表した信長。



ここで供養のために千部経を
読経させ、大きな卒塔婆を立てた・・・
大掛かりな「義元供養」を行っていますが、同時にこれは「今川を倒した宣伝」でもありました。
大々的勝利宣伝の情報戦略であり、情報を重視した信長らしい戦略です。



このたび義元を討ち取った際に
義元が常に差していた・・・



秘蔵の名刀、左文字の刀を、
信長は召し上げ・・・



何度も試し切りをして、
常に差すことにした・・・



この合戦に勝った手柄は、
いうまでもないことである・・・
信長公記には、「信長の声」は記載ありませんが、



これが左文字の刀か!
確かによく切れる!



これからは、私が
使うのだ!
信長が上機嫌で、名刀を腰に差した記載があります。



さて、鳴海の城には岡部元信が
立て籠もっていたが・・・



降参したので、
一命は助けてやった・・・
ここで、この後も今川家に尽くす著名な岡部元信の名前が登場します。



敵方は、大高城・沓懸城・地鯉鮒城・
鴫原城とも五ヶ所・・・



同じく城を明け渡して
退去した・・・
そして、あっと言う間に、尾張南部の「一時今川領」となった城々を奪還した信長。
一時は、今川軍の進軍によって尾張南部は大分抑えられ、海の流通も止められていた織田家。
そして、今川に押されていた時期は「実質二十五万石程度」まで減少したと思われる織田家領土。
その織田領は、一気に五十万石近くになりました。
そして、織田家は東の徳川家と同盟を締結し、信長は北の美濃・西の伊勢へ向かってゆきます。

