前回は「永遠の謎の光秀「ときは今」の真意〜地味ながら「超名門守護」の土岐・信長が命じた「信康自決」の真相・良好な同盟関係続けた織田と徳川〜」の話でした。
安土城から世界を睨んでいた信長:「日本的」ではない豪華絢爛建築

当時、日本でただ一つの豪華極まりない安土城で、長年の同盟者であった徳川家康を歓待した信長。
世界において、戦国期の頃は、欧州が世界の中心でした。
現在、世界トップの米国はまだ存在していない時代でした。
欧州と言うと、現代の視点では「英独仏中心」ですが、当時はスペインとポルトガルの時代でした。
当時、世界を分割する勢いだったスペインとポルトガルに関する話を、上記リンクでご紹介しています。
当時、世界の文化の中心地でもあったスペイン、ポルトガル、あるいは中国は豪華な建築が多いです。

安土城は、それらの欧州・中国の豪華絢爛たる建築に全く引けを取らない、壮大な建築でした。

日本の中世、戦国期までの「豪華な建築」は、その筆頭の一つが金閣寺です。
金閣寺も豪華な建築ですが、規模は小さく、いかにも日本的です。
それに対して、消失してしまったため詳細は不明ですが、安土城は「日本的ではない」のが特徴です。

上の安土城図を見ると、小高い山の上に、キラキラと燦然と輝いていたのが安土城でした。

現代、安土城はすでに廃墟となってしまいましたが、幸運なことに石垣などは残存しています。
戦国末期から江戸期、そして明治以降の時代において、安土城は廃墟のまま保存されたのでした。
安土城を訪問した話を、上記リンクでご紹介しています。

本拠地を次々と移転させた織田信長は、当時の戦国大名の中で際立って異質な存在でした。
領土が広大になった諸大名の中で、本拠地を移転させた大名は「いなかった」のでした。
そして、安土城から「世界を睨んでいた」のが間違いなかったのが織田信長でした。
信長の「最後の上洛」:安土城築城大臣・丹羽長秀の巨大な政治力

そして、この「信長肝入り」とも言える安土城築城の総奉行を務めたのが、丹羽長秀でした。
江戸時代まで使用された「奉行」と言う役職は、「大臣」又は「長官」に相当します。
つまり、織田家において「安土城築城大臣」であった丹羽長秀。
| 名前 | 生年(一部諸説あり) |
| 林秀貞 | 1513年 |
| 柴田勝家 | 1522年 |
| 滝川一益 | 1525年 |
| 明智光秀 | 1528年 |
| 佐久間信盛 | 1528年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 丹羽長秀 | 1535年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
信長は、後世の視点で「晩年」に、重臣であった林秀貞・佐久間信盛を放逐しました。
この信長の意図には諸説ありますが、「新体制づくりのための断行」だったと思われます。
織田家重臣の中でも、「1歳下」であり、若い頃からずっと信長に付き従っていた丹羽長秀。
信長にとって、丹羽長秀は「家臣を超えた親戚」のような存在でした。

丹羽長秀に対する評価は、あまり高くなく、一般的には「織田四天王」の下です。
そもそも、「織田四天王」は著名な諸大名と同格、又はそれ以上の能力を持っていました。
政治・軍事の大天才・織田信長が率いた織田軍団は、戦国の世を席巻しました。
大大名となった、毛利・武田・上杉・大友家などと比較すると、異常な膨張を成し遂げた織田家。
それは一つに織田信長の能力によりますが、家臣団の際立って高い能力も極めて重要でした。
その中で、丹羽長秀は「比較的普通」の武将に扱われますが、政治力は抜群だったと考えます。

信長公記において、丹羽長秀は、頻繁に登場する人物の一人です。

信長公記織田信澄・丹羽長秀の
二人には、



大坂で
家康公の接待をせよ!



と、
命じた。



ははっ、
お任せ下され!
丹羽長秀は、おそらくこのように「家康公の接待」の全責任を負ったでしょう。





ときは今 あめが下知る
五月かな 明智光秀・・・
丹羽長秀が「徳川家接待大臣」として京から堺に向かった頃、光秀の「ときは今」となりました。



五月二十八日、
丹波の亀山に帰城。



五月二十九日、
信長は上洛した。



安土城本丸のお留守衆に、織田信益・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・
遠山新九郎・世木弥左衛門・市橋源八・櫛田忠兵衛。
毎度のことながら、太田牛一の記述は詳細を極めています。
安土城の留守を守る家臣として、筆頭格と思われる七名を具体的に挙げています。
おそらく、若い小姓レベルの人もいたと思われ、それほど著名な人物ではありません。
ここまで詳細な人名を、太田牛一がどのように記録したのか、は謎です。
当時、それまで何度何度も上洛していた信長。
まさか、信長自身「夢にも思わなかった」でしょう。



余の上洛は、
何度目かのう・・・
これが「最後の上洛」となる、とは。



