前回は「「天がついた」織田信長の正面奇襲攻撃〜瞬く間の大勝利・「義元の首」を返し「義元塚」築造・大々的勝利宣伝の情報戦略〜」の話でした。
武田討滅で「本懐遂げた」信長:武田最大版図築いた武田勝頼

1560年の桶狭間の戦いで、戦国時代にデビューした織田信長。
ここから、美濃攻略に7年ほど時間がかかり、そこから織田家は猛烈な勢いで膨張します。
今回は、時計の針を先に動かして、本能寺の変前夜に移ります。

信長公記信長は、この春、
東国へ出陣し・・・



武田勝頼・同信勝・同信豊ほか
武田勝頼一門の歴々を打ち果たして・・・



本懐を
遂げた。
1582年3月に、武田家を滅亡させた織田信長。
織田家の「最大の敵」に関しては、諸説ありますが、筆頭候補は武田家か本願寺です。
この「織田家最大の敵」は、戦国大名の視点から見れば、明らかに武田家でした。


近畿に勢力を張った織田家に対して、甲斐・信濃を中心とする甲信・東海・関東に勢力を張った武田家。


「戦国の虎」と言われた武田信玄は、「戦国最強の軍団」を率いて暴れ回りました。
上の武田晴信(信玄)の肖像画に対しては、真偽諸説ありますが、信玄らしいイメージが伝わります。
| 名前 | 生年 |
| 毛利元就 | 1497年 |
| 北条氏康 | 1515年 |
| 今川義元 | 1519年 |
| 武田信玄 | 1521年 |
| 長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 島津義弘 | 1535年 |
| 羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
| 武田勝頼 | 1546年 |
1573年に病死した武田家を継承する立場となった武田勝頼。
信長よりも12年も若い武田勝頼。
勝頼は、凡将・愚将と表現されることもありますが、実はかなりの猛将でした。





この武田勝頼は、
織田・徳川を倒す!
勢い余った若者であった武田勝頼は、遠江から三河で暴れ回りました。
そして、まだ現代の29歳の時に、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫した武田軍。
武田四天王の四人のうち三名が戦死し、大勢の歴戦の将兵が消えてしまいましたが、



なんの、これから勝頼流で
まずは徳川を倒す!
若い勝頼は、持ち前の軍事力を発揮し、実は武田家は「勝頼の代に最大版図」となりました。
この点では、「長篠」以降も武田家は強烈な存在であり続けたのでした。
徳川家に駿河・遠江を「進呈」した信長:徳川家への気遣いと配慮


確かに、ずっと「民衆の力」で抵抗し続けた本願寺は、最後の最後まで信長に抵抗しました。
その一方で、戦国の世において「戦国大名」ではなく「宗教大名」だった本願寺。
この点で考えれば、「織田家最大の敵」は、やはり武田家が相応しいです。
信長公記の「本懐を遂げた」という、極めて簡潔な言葉に、当時の信長の本意が表れています。



そして、駿河・遠江両国を
徳川家康に進呈し・・・



穴山梅雪には
本領を安堵した。
ここで、家康に対して「駿河・遠江両国を進呈」した信長。
一般的に、この「武田討滅」で、信長が家康に「駿河を与えた」と表現されることが多いです。
まずは、「駿河一カ国」ではなく「駿河・遠江二カ国」である点が重要です。
この以前に、「今川討滅後に、駿河は武田、遠江は徳川」と信玄と家康の間で密約が交わされました。
ところが、その後、武田・徳川が完全に敵対関係となり、遠江は過半が武田の領土となりました。



武田軍が
強力すぎる・・・
1573年の「信玄西上」の時には、「三方原」で致命傷を負わされた徳川家。
その後、勝頼の代になって、「長篠」で大勝利したものの「押され続けた」のが徳川でした。
| 守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
| 守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家・大内家・六角家 |
| 守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家 |
| 国衆(地侍) | 織田家・徳川家・毛利家・北条家・三好家・(豊臣家) |
そもそも、「守護代ですらない」家柄だった織田家と徳川家。
それに対して「堂々の守護」であり、「清和源氏の嫡流」であった武田家は「格が違う」存在でした。
後世の視点から、「長篠」以後は「武田が一気に弱体化」と思われますが、実情は異なりました。
当時は、「守護」だった今川家・大内家・六角家などが次々と消えた時代でした。



これからは守護の時代ではなく、
織田の時代よ!
信長は高々とこのように「織田の時代」を叫んでいましたが、「守護の力」は圧倒的でした。
何といっても、1185年に源頼朝が制定してから400年ほどの歴史があった「守護」の存在。
名前の通り「国の守護神」であった「守護」の家格と影響力は、極めて強いものでした。
一時は、「三河まで侵攻された」徳川家は、「駿河・遠江を頂戴した」のでした。



徳川殿、
駿河・遠江を進呈する・・・



有り難く
頂戴します・・・
「織田の一方面司令官の立場だった」と表現されることもある、当時の徳川家。
実態は、やはり「独立大名」であり、信長は極めて徳川家に気を遣っていました。
その「信長の意図」が「進呈」という言葉に表れています。

