徳川家に駿河・遠江を「進呈」した信長〜徳川家への気遣いと配慮武田討滅で「本懐遂げた」信長・武田最大版図築いた武田勝頼〜|本能寺の変1・信長公記8

前回は「「天がついた」織田信長の正面奇襲攻撃〜瞬く間の大勝利・「義元の首」を返し「義元塚」築造・大々的勝利宣伝の情報戦略〜」の話でした。

目次

武田討滅で「本懐遂げた」信長:武田最大版図築いた武田勝頼

新歴史紀行
桶狭間の戦い(Wikipedia 歌川豊宣画)

1560年の桶狭間の戦いで、戦国時代にデビューした織田信長。

ここから、美濃攻略に7年ほど時間がかかり、そこから織田家は猛烈な勢いで膨張します。

今回は、時計の針を先に動かして、本能寺の変前夜に移ります。

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信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)
信長公記

信長は、この春、
東国へ出陣し・・・

信長公記

武田勝頼・同信勝・同信豊ほか
武田勝頼一門の歴々を打ち果たして・・・

信長公記

本懐を
遂げた。

1582年3月に、武田家を滅亡させた織田信長。

織田家の「最大の敵」に関しては、諸説ありますが、筆頭候補は武田家か本願寺です。

この「織田家最大の敵」は、戦国大名の視点から見れば、明らかに武田家でした。

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1573-75年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号学研)

近畿に勢力を張った織田家に対して、甲斐・信濃を中心とする甲信・東海・関東に勢力を張った武田家。

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戦国大名 武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「戦国の虎」と言われた武田信玄は、「戦国最強の軍団」を率いて暴れ回りました。

上の武田晴信(信玄)の肖像画に対しては、真偽諸説ありますが、信玄らしいイメージが伝わります。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
島津義弘1535年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1543年
武田勝頼1546年
戦国大名の生年

1573年に病死した武田家を継承する立場となった武田勝頼。

信長よりも12年も若い武田勝頼。

勝頼は、凡将・愚将と表現されることもありますが、実はかなりの猛将でした。

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戦国大名 武田勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
武田勝頼

この武田勝頼は、
織田・徳川を倒す!

勢い余った若者であった武田勝頼は、遠江から三河で暴れ回りました。

そして、まだ現代の29歳の時に、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫した武田軍。

武田四天王の四人のうち三名が戦死し、大勢の歴戦の将兵が消えてしまいましたが、

武田勝頼

なんの、これから勝頼流で
まずは徳川を倒す!

若い勝頼は、持ち前の軍事力を発揮し、実は武田家は「勝頼の代に最大版図」となりました。

この点では、「長篠」以降も武田家は強烈な存在であり続けたのでした。

徳川家に駿河・遠江を「進呈」した信長:徳川家への気遣いと配慮

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左上から時計回りに、織田信長、徳川家康、武田勝頼、羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

確かに、ずっと「民衆の力」で抵抗し続けた本願寺は、最後の最後まで信長に抵抗しました。

その一方で、戦国の世において「戦国大名」ではなく「宗教大名」だった本願寺。

この点で考えれば、「織田家最大の敵」は、やはり武田家が相応しいです。

信長公記の「本懐を遂げた」という、極めて簡潔な言葉に、当時の信長の本意が表れています。

信長公記

そして、駿河・遠江両国を
徳川家康に進呈し・・・

信長公記

穴山梅雪には
本領を安堵した。

ここで、家康に対して「駿河・遠江両国を進呈」した信長。

一般的に、この「武田討滅」で、信長が家康に「駿河を与えた」と表現されることが多いです。

まずは、「駿河一カ国」ではなく「駿河・遠江二カ国」である点が重要です。

この以前に、「今川討滅後に、駿河は武田、遠江は徳川」と信玄と家康の間で密約が交わされました。

ところが、その後、武田・徳川が完全に敵対関係となり、遠江は過半が武田の領土となりました。

徳川家康

武田軍が
強力すぎる・・・

1573年の「信玄西上」の時には、「三方原」で致命傷を負わされた徳川家。

その後、勝頼の代になって、「長篠」で大勝利したものの「押され続けた」のが徳川でした。

守護・守護代・国衆(地侍)出身大名
守護武田家・大友家・島津家・今川家・大内家・六角家
守護代長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家
国衆(地侍)織田家徳川家・毛利家・北条家・三好家・(豊臣家)
戦国期の大名の家柄:守護・守護代・国衆(地侍)

そもそも、「守護代ですらない」家柄だった織田家と徳川家。

それに対して「堂々の守護」であり、「清和源氏の嫡流」であった武田家は「格が違う」存在でした。

後世の視点から、「長篠」以後は「武田が一気に弱体化」と思われますが、実情は異なりました。

当時は、「守護」だった今川家・大内家・六角家などが次々と消えた時代でした。

織田信長

これからは守護の時代ではなく、
織田の時代よ!

信長は高々とこのように「織田の時代」を叫んでいましたが、「守護の力」は圧倒的でした。

何といっても、1185年に源頼朝が制定してから400年ほどの歴史があった「守護」の存在。

名前の通り「国の守護神」であった「守護」の家格と影響力は、極めて強いものでした。

一時は、「三河まで侵攻された」徳川家は、「駿河・遠江を頂戴した」のでした。

織田信長

徳川殿、
駿河・遠江を進呈する・・・

徳川家康

有り難く
頂戴します・・・

「織田の一方面司令官の立場だった」と表現されることもある、当時の徳川家。

実態は、やはり「独立大名」であり、信長は極めて徳川家に気を遣っていました。

その「信長の意図」が「進呈」という言葉に表れています。

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