西郷が最後の日々を過ごした西郷隆盛洞窟〜写真が一枚も残っていない維新の巨星西郷隆盛・写真が大嫌いだった西郷と明治新政府の意図〜|西郷隆盛洞窟1・明治維新

前回は「大内戦・西南戦争の巨大な爪痕〜明治維新の総決算・徳川に最後まで抵抗した超名門島津家・関ヶ原の戦いの島津家と熊本城〜」の話でした。

目次

写真が一枚も残っていない維新の巨星・西郷隆盛

陸軍大将 西郷隆盛(国立国会図書館)

西郷隆盛は好きな方は多いと思います。

有名な割には謎も多い西郷隆盛。

実は、西郷隆盛には公式に認められた写真が一枚もありません。

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維新の四傑:左上から時計回りに、木戸孝允、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛(Wikipedia)

「維新の三傑」の他の二名である大久保利通や木戸孝允は多数の写真が残っています。

「維新の四傑」を挙げるとしたら、残りは岩倉になりますが、岩倉具視もたくさん写真があります。

死没年名前死の原因
1877木戸孝允病死
1877西郷隆盛自刃
1878大久保利通暗殺
1883岩倉具視病死
「維新の四傑」の死没年と原因
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左上から時計回りに、高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛、中岡慎太郎(Wikipedia)

維新直前に暗殺されてしまった坂本龍馬、中岡慎太郎らの写真は何枚かあります。

ところが、「明治維新最大の功績者」である西郷隆盛は一枚もないのは、なんとも異様です。

「本人が写真を嫌った」のが「理由」とされています。

写真が大嫌いだった西郷と明治新政府の意図

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鳥羽・伏見の戦い(Wikipedia)

維新前後でさまざまな出番があった西郷。

ピシッと一人で写った写真でなくても、何人かで写った写真くらいありそうなものです。

また本人が嫌っていても、なにかの拍子に何者かが撮影して、

あっ、
あれは西郷どんだ!

ちょっと撮影して
おこうか!

その写真が残る方が、むしろ当然でしょう。

現実としては、当時の写真撮影は非常に高価でした。

さらに、露光などの関係から、写真撮影は「時間がかかる」ものでした。

そのため、現代のように「遠くからパシャ」という訳にはいきません。

ところが、おそらく当時「最大の有名人」であった西郷隆盛。

そして、西郷隆盛は明治天皇に供奉して日本中を回ったこともあります。

おいどんは、
写真が嫌いごわす!

と西郷が写真撮影を嫌い、

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岩倉使節団(Wikipedia)

岩倉使節団で米国などを訪問した大久保利通が、嬉々として洋装で撮影した写真を西郷に送ると、

笑止千万!
醜いので、おやめなされ・・・

と弟分であった大久保を西郷が「叱責した」手紙を出しました。

とにかく「写真撮影が大嫌い」だった西郷隆盛は、生前の写真は一枚もありません。

そして、有名な上の「写真」は「肖像画」です。

イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが「西郷隆盛の雰囲気を想像して描いた」絵です。

超有名人ながら、「写真が一枚もなかった」とされる西郷。

西郷が様々な場所を訪問しているうちに、

あっ、
維新の英雄、西郷陸軍大将だ!

遠くからだから、
あまり映らないけど、撮影しておこう!

と誰かが撮影することが「全くなかった」と考える方が難しいです。

西郷隆盛の写真に関しては、有名なフルベッキ写真など、諸説あります。

旧武士の反乱はピリオドを打った西南戦争。

一時は賊軍となった西郷隆盛を、「維新政府が写真含めて全て抹殺した」のが本当のところでしょう。

かつて西南戦争の痕跡を辿りましたが、今回は「西南戦争の最後の地」である城山に向かいましょう。

西郷が最後の日々を過ごした西郷隆盛洞窟

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西郷隆盛洞窟(新歴史紀行)

西郷隆盛洞窟は、西南戦争の際に「西郷隆盛が最後にたてこもった」という伝説のある洞窟です。

西郷が、本当にここで最後の抗戦を迎えていたのかは、確たること証拠はありません。

西郷隆盛洞窟(新歴史紀行)


「西郷隆盛が最後を迎える直前に過ごした」ことに想いを馳せながら、訪問しました。

すると、なんとなく鬼気迫る雰囲気があります。

すぐ目の前に柵があるのが少し残念ですが、中を覗いてみましょう。

西郷隆盛洞窟(新歴史紀行)

それほど広くないので、あの大柄な西郷隆盛が、ここで過ごせたかは謎です。

みんな、
おいどんとここで最後の夜ごわす!

と西郷隆盛が「最後の夜」を過ごしたと言われる西郷隆盛洞窟。

戦争の指揮は「桐野利秋らに任せていた」と言われる西郷ですが、最後は多少は指揮したでしょう。

「最後の抗戦をここから指揮していた」と言われる「西郷隆盛の最期」を感じられる場所です。

次回は上記リンクです。

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