前回は「西郷隆盛 2〜近世を葬った男の実像〜」の話でした。

島津斉彬の命令を受け、江戸で橋本左内や梅田雲浜らの名士らと交際する西郷隆盛。
「幕府・諸藩の取るべき道」さらには「薩摩進むべき道」を模索し続けます。

薩摩は、
今後どのように立ち回るべきか・・・


とりわけ、若き頃から優れた頭脳の誉の高い、橋本左内。
最初、西郷は、橋本の優しげな感じから、



ちょっと頭が
いいだけではないのか?
と疑念を抱くも、話しているうちに、年下の橋本の頭脳に惚れ込みます。



橋本左内は、
大した人物だ!


1853年には、米国のペリーが浦賀に軍艦を引き連れて乗り込んできました。
米国に恫喝されるものの対抗する力がない徳川幕府。


なし崩し的に、片務的最恵国待遇を含む不平等条約の日米和親条約を結びます。
その後、1858年には米国ハリスがやってきます。


ハリスの要求を、はぐらかし続ける幕府でしたが、強引なハリスに押し切られます。
そして、関税自主権・治外法権もない日米修好通商条約を、締結します。
この過程では、江戸幕府もやられてばかりではなく、しっかりと諸外国と交渉をしていました。
徳川幕府には、優れた政治家・官僚が大勢いたのです。


しかし、いかんせん、当時の日本と当時最先端の米国・英国などの力には隔絶した差がありました。
条約締結自体は、どうしようもない状況でした。
西郷・橋本・梅田らが当事者である幕府の高官であったとしても、同じ結果となったでしょう。
この頃、西郷隆盛は、倒幕までは考えてなかったに違いない。



幕府だけには
任せられぬ!
西郷は、橋本・梅田らと諸侯をより深く政治に関わらせるような画策を考えます。


条約締結はどうしようもなかったものの、1858年の日米修好通商条約締結の際に、徳川幕府は国内で非常事態に陥ります。
徳川幕府にとって、想定外の事態が発生したのです。
日本人らしい「建前」として、日米修好通商条約締結の際には「形式上、天皇の勅許を得る」のが必要でした
「形ばかりの儀式」を「単なる手続き」として踏まえようとする徳川幕府。
待った!
この時、幕府首脳が全く想定していなかった「待った」が、かかります。


待ったをかけたのは誰あろう、他ならぬ孝明天皇でした。