西郷隆盛 3〜近世を葬った男の若き日々 〜|幕末維新

前回は「西郷隆盛 2〜近世を葬った男の実像〜」の話でした。

西郷隆盛(国立国会図書館)

島津斉彬の命令を受け、江戸で橋本左内や梅田雲浜らの名士らと交際する西郷隆盛。

「幕府・諸藩の取るべき道」さらには「薩摩進むべき道」を模索し続けます。

薩摩は、
今後どのように立ち回るべきか・・・

橋本 左内(Wikipedia)

とりわけ、若き頃から優れた頭脳の誉の高い、橋本左内。

最初、西郷は、橋本の優しげな感じから、

ちょっと頭が
いいだけではないのか?

と疑念を抱くも、話しているうちに、年下の橋本の頭脳に惚れ込みます。

橋本左内は、
大した人物だ!

梅田 雲浜(Wikipedia)

1853年には、米国のペリーが浦賀に軍艦を引き連れて乗り込んできました。

米国に恫喝されるものの対抗する力がない徳川幕府。

Matthew Calbraith Perry(Wikipedia)

なし崩し的に、片務的最恵国待遇を含む不平等条約の日米和親条約を結びます。

その後、1858年には米国ハリスがやってきます。

Townsend Harris(Wikipedia)

ハリスの要求を、はぐらかし続ける幕府でしたが、強引なハリスに押し切られます。

そして、関税自主権・治外法権もない日米修好通商条約を、締結します。

この過程では、江戸幕府もやられてばかりではなく、しっかりと諸外国と交渉をしていました。

徳川幕府には、優れた政治家・官僚が大勢いたのです。

老中 阿部 正弘(Wikipedia)

しかし、いかんせん、当時の日本と当時最先端の米国・英国などの力には隔絶した差がありました。

条約締結自体は、どうしようもない状況でした。

西郷・橋本・梅田らが当事者である幕府の高官であったとしても、同じ結果となったでしょう。

この頃、西郷隆盛は、倒幕までは考えてなかったに違いない。

幕府だけには
任せられぬ!

西郷は、橋本・梅田らと諸侯をより深く政治に関わらせるような画策を考えます。

薩摩藩主 島津 斉彬(国立国会図書館)

条約締結はどうしようもなかったものの、1858年の日米修好通商条約締結の際に、徳川幕府は国内で非常事態に陥ります。

徳川幕府にとって、想定外の事態が発生したのです。

日本人らしい「建前」として、日米修好通商条約締結の際には「形式上、天皇の勅許を得る」のが必要でした

「形ばかりの儀式」を「単なる手続き」として踏まえようとする徳川幕府。

待った!

この時、幕府首脳が全く想定していなかった「待った」が、かかります。

孝明天皇(Wikipedia)

待ったをかけたのは誰あろう、他ならぬ孝明天皇でした。

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