前回は「「丸暗記」兵学を馬鹿馬鹿しいと感じた草鹿龍之介〜数学物理は得意・既に「海軍将校の敬礼」受けた海兵生徒たち・「別格扱い」教育の是非〜」の話でした。

教官の講義に対し「論争」海兵生徒たち:自主性強きハイレベル軍団

「鉄拳の連続」であった海軍兵学校では、食事は極めて恵まれていました。
そして、当然のことながら、心身と共に頭脳を鍛える必要があった「海軍将校の卵」たち。
草鹿龍之介兵学校には、武官の教官以外に
多数の文官の教官がいる。



教室に出る時は、必ず
モーニングを着用する。



即ち海軍将校と同様の
敬礼を受ける。
当時、現代の東大と同レベル、あるいはそれ以上の精鋭が集まった海軍兵学校。
草鹿の学年は、卒業時118名でした。
現代、東大が一学年約3,000名いることを考えると、かなりの難関だったと考えます。



こういうことも
あった。



我々は、運用術の講義で、
船のピポッティングポイントは、



船首から約三分の一の所に
あると教わった。



大学を出たばかりの
野満教授は、



略略重心点と
一致する。



と言われた。生徒は承服せず、
教官と論争した。



・・・・・



正直なる教官は、
考え直された。



自分の力学的研究を更に進めた結果、
自分の説の誤りを知った。



教官は生徒の前でわずかの執着もなく、
自説を訂正されたのみならず、



水交という雑誌に、
詳細なる理論を発表された。



この態度は、我らに
深き感銘を与えた。
現代の高校生から大学生に相当する年齢だった海軍兵学校の生徒たち。
優秀だった海兵の生徒たちは、授業で不審な点を見つけると、堂々と教官に指摘しました。
現代の高校や大学の授業は、概ね「完全な受け身」であるのとは全く異なります。
現代であれば、高校生・大学生は、教員・教授の教えに対し「一切の疑問を持たない」傾向があります。
仮に、少し疑問を感じたとしても、



ちょっと
疑問だけど・・・



まあ、先生が言うのだから、
そうなんだろうな・・・
こんな感じで「無意味に納得」してしまい、教員・教授に質問すらいかないでしょう。
ところが、「教授と論争」した1911年頃の草鹿たち海兵生徒たち。
現代の高校生〜大学生よりも、はるかにハイレベルな人物たちでした。
海軍兵学校の「スーパーエリート教育」:外国教員と密接なふれあい


「水交」という雑誌が登場しましたが、これは帝国海軍専門の雑誌です。
帝国海軍には「水交社」という外郭団体があり、海軍将校の親睦のための組織がありました。



野満教授は、後年、海軍水雷学校の
教授になり、



水中爆発の研究に従事し、
野満タームを発見された。



後、京都帝大の
教授になられた。
生徒の指摘に誠実に対応した野満教授は、独自理論と思われる「野満ターム」を発見しました。



一方、また優秀なる
資質を有しながら、



十年一日の如く、古きフルスカップの
原稿を持って、



生徒を黒板の前に立たせ、
問題を与えて生徒が出来ないと、



一時間中黙って横で眺め、
そのうちにベルがなると、



それまで
引き分け。



と言って、さっさと
帰る教官もあった。
生徒を「黒板の前で立たせっぱなし」で「なんの解説もしない」教員・教授もいました。
現代ならば、大問題となる可能性がありますが、こういうことが「普通」だった海兵の教官。


明治維新以降、「とにかく欧米」であり「とにかく欧米の学問吸収」を推進した明治政府。
「とにかく欧米」の象徴的存在の鹿鳴館が竣工したのが1883年のことでした。
そして、草鹿龍之介が海兵生徒だった1910年〜1912年は、この時から30年経過していません。
英語の教科書が多い中、外国の教官も多数いた海軍兵学校。



マーター教授は、
生徒にサッカーの指導をした。



棒倒し一本に攻撃精神を
発揮しつつあった生徒は、



初めはボールを中心に
殴り合いをこととした生徒も、



遂にはボールなど眼中になく、
鉄拳を振い掴み合いに夢中となり、



ボールはとんでもない所に
転がっている。



おお!
江田島ゲーム、ストップ!ストップ!



と叫びながら、
マーター教授は汗を流して駆け回る。
現代の高校・大学にも多数の外国の教員・教授はいますが、このようなふれあいは、ほぼありません。
極めて優れた海兵生徒たちは、若い頃から外国の教員と密接に触れ合い、研鑽を続けました。
海軍兵学校では、現代日本では考えられない「スーパーエリート教育」が行われていたのでした。

