前回は「常に気品・威厳から「ジェントルマン将校」へ〜英国流海軍将校と貴族意識・「うまい弁当」を作ってくれた海軍兵学校・海上で戦う海軍将校の身体〜」の話でした。

数学や物理などの教科書が英語だった海兵教育:ハードな英語中心の学び

帝国海軍のエリート将校を育成する海軍兵学校は、「食に極めて厚い」環境でした。

自らが、若き海兵生徒だった頃を、草鹿龍之介は丹念に当時を描写しています。
草鹿龍之介将来、海軍将校たる生徒は、
常に気品を保たなくてはならぬ。



笑顔を見せたりしては
いけないのである。



常に威厳を保たねば
ならぬ。
とにかく、「威厳を保ち、常にジェントルマン」でなければならなかった海兵。
わずか、16〜19歳の少年たちが入校し、3〜4年で「海軍将校」へ育てる超エリート教育でした。



数学、物理、化学、電気工学、力学、
機関術まで、教科書は英語であった。



我々が入学する二、三年前まで、
運用術も教科書は英語であったそうである。
なんと、草鹿の頃の海兵は、学問の基礎となる数学、物理などの教科書は全て英語でした。
明治初期の頃は、明らかに欧米の学問より遥かに劣っていた日本の学問。


西郷下野後は、「とにかく欧化」を目指した明治新政府は、大量の留学生を欧米に送りました。
学問が劣っていたと言うよりも、欧米のような「体系的学問がなかった」日本。
そして、欧米から帰ってきた多数の留学生たちが、帝国大学などで教授に就きました。
その結果、日本は日本独自の学問体系を整えて行ったのでした。
| 海軍兵学校卒業期 | 名前 | 生年 |
| 28 | 永野 修身 | 1880 |
| 32 | 山本 五十六 | 1884 |
| 36 | 南雲 忠一 | 1887 |
| 37 | 小沢 治三郎 | 1886 |
| 39 | 伊藤 整一 | 1890 |
| 40 | 宇垣 纏 | 1890 |
| 40 | 大西 瀧治郎 | 1891 |
| 40 | 山口 多聞 | 1892 |
| 41 | 草鹿 龍之介 | 1892 |
1892年に生まれ、1910年に海兵に入学した草鹿龍之介。
1910年においても教科書がほとんど英語であり、「欧米の学問」を身につけることを求められました。
「英語の教科書」で数学や物理を学ぶのは、かなり大変なことと考えます。
この点だけでも、海兵の学習は、現代の大学や高校の学習よりも遥かにハードでした。
そして、当時の海兵生徒たちは、一生懸命、必死に学んだと考えます。
山下源太郎校長と加藤寛治教頭:未来の連合艦隊司令長官が睨む環境


多数の軍艦を操る帝国海軍将校たちは、帝国陸軍将校よりも、理系の知識・素養が求められました。



したがって、この運用術に関する
日用語や、号令の一部に、英語が多分に残っていた。



海軍士官、特に老年の士官の日常会話の中に、
英語が使われるが・・・



これは何も気障(キザ)で使う
次第ではない。
当時、古株の海軍士官たちは、何かにつけて日常でも英語を使っていたようです。
そして、それは「気障(キザ)」や「カッコつけ」ではなく、「普通のこと」だったのでした。
そもそも、「英語で学んだため、該当する日本語を身につけていなかった」のが理由でした。



ネイビー
ではね・・・
帝国海軍将校等は、よく自分たち海軍のことを「ネイビー(Navy)」と呼んでいました。
現代の大学生、高校生と比較すると「遥かに英語が身近な生活」でした。



入校後しばらくしてから、
七つ鉤の冬の軍服や・・・



錨の襟章のついた通常礼服の仮縫いがあり、
全てこれらが支給された。



軍帽と短剣は、入校と
同時に貰った。



自分のチェスト(衣類箱)を開いた時、
黄色の袋に入っている短剣を見た時も一寸嬉しかったが・・・



軍服や通常礼装が出来た時は
更に嬉しかった。



ワイシャツも
貰った。



この服装が全部揃ってから、
新入生は外出を許可された。
とにかく若々しい青年たちだった、当時の超エリート海兵生徒たち。
その超エリートたちは、海軍将校の服装を貰って、素直に喜んでいました。
そして、入校後初めての冬休みは、一時帰省をして故郷に錦を飾った草鹿たち。



再び兵学校に帰る足は、
軽くはなかった。



校長は山下源太郎少将であり、
教頭兼幹事長は加藤寛治大佐である。


後に連合艦隊司令長官、軍令部総長(部長)を務める山下源太郎が校長でした。


更に、同様に後に連合艦隊司令長官、軍令部総長(部長)を務める加藤寛治が教頭でした。
つまり、バリバリの現役将校・提督を校長・教頭に据えていた海軍兵学校。
まさに、「海兵生徒たちの未来像」こそが、この頃の校長・教頭でした。



山下校長も海軍部内において
定評のある名提督であり・・・



加藤監事長も、英国から
帰ったばかりの名士である。



生徒はいよいよ
締められることになった。
第二次世界大戦の頃になると、「閑職扱い」となった傾向もある海軍兵学校校長。
優れた人物が就任することもありましたが、戦時は前線が最重要でした。
草鹿が少年だった頃は、平穏な時代であり、山下や加藤のような提督が校長・教頭でした。
名提督たちが校長・教頭として「目を光らせている」環境で、海兵生徒たちは学び続けたのでした。

