前回は「戦艦大和の模型作成 7〜艦橋のレーダー〜」の話でした。

多数の日本海軍の将星たちが座乗した艦橋が完成しました。
これから、艦橋付近の対空砲を作成してゆきます。

非常に小さなパーツの型紙を切りました。
鉛筆と比較すると分かりますが、対空砲火砲のサイズは鉛筆の直径よりも小さいです。
小学校2年生の子供と一緒に制作していますが、子供も切るのは大変そうでした。
右側の小さな接着面があるパーツは、カッターでないと切れないので、僕が切りました。

対空砲火砲一つを組み立ててみると、非常に小さなパーツです。
小さすぎて、円柱部分を丸めるのも一苦労ですが、ピンセットを使用して何とか作成しました。

戦艦大和の中央艦橋周囲の対空砲火砲を、順次接着してゆきます。

まだ途中ですが、非常に高密度に対空砲火砲が作られているのが、よく分かります。

反対側にも対空砲火砲を設置してゆきます。
元々設置してあった中型の対空砲火砲5門に対して、小型の対空砲火砲10門を設置しました。
真珠湾攻撃の頃に完成した、日本海軍の象徴であった戦艦大和。
日本海軍には様々な艦船があり、実に多様な名称がつけられましたが、ただ一つ「日本の別名」を冠した戦艦大和。
文字通り「日本海軍の象徴」という立場を超えて、「日本の象徴」とも言える存在となるべき艦でした。

真珠湾奇襲攻撃で、戦術的には米海軍に大打撃を与えた日本海軍。
実際には「米国への宣戦布告の遅れ」で、戦略的には大失敗でした。
ちょうどこのタイミングで完成・進水した戦艦大和。
「大艦巨砲主義の権化」ともいわれた宇垣纏は、軍令部第一部長時代に強力に建造を推進した一人でした。

その宇垣は真珠湾奇襲攻撃の際には、山本長官を補佐する連合艦隊参謀長となっています。

戦艦大和の巨砲で、
米海軍を潰すのだ!
対して、早い時期から航空機・空母主軸を唱えていた山本長官。





もはや
戦艦の時代ではない。



これからは、
航空機主体の戦いとなる!
日米開戦前から、強くこう考えていた山本長官。
秀才だったが考え方が合わない宇垣参謀長を「敬遠していた」と言われています。
あるいは、日本海軍の「軍令の要」である軍令部第一部長のポスト。



第一部長が宇垣では、
航空機主体の方針が妨げられる・・・
という懸念から、「宇垣を軍令部第一部長から外すために連合艦隊参謀長にした」という説もあります。
そして、宇垣の代わりに軍令部第一部長となったのは、こちらも秀才の名声が高かった福留繁。
宇垣も福留も同じ海兵40期の同期生です。
山本の空母・航空機への思いは大変なもので、早い時期から戦艦を作っていた海軍技師に対して、



悪いが、戦艦を作っていたら、
君たちは失職するぜ。
と言ったという逸話も残っています。
膨大な予算と長い年月をかけて作り上げた戦艦大和。
当時の日本海軍のみならず、日本全体の科学技術の結晶とも言える存在でした。


竣工したばかりの戦艦大和には、艦橋周囲の中型の対空砲火砲があります。
しかし、周囲の小型の対空砲火砲はありませんでした。
これは、「戦艦大和は艦隊決戦に出てゆく!」という強い信念故でした。
そして、航空機との戦いを、竣工時はあまり考慮していなかったのでしょう。


「戦艦から空母へ」の流れを「感じていた」当時の世界各国の海軍将官は、それなりの人数がいました。
しかし、「航空機から撃った魚雷・爆弾が艦船に当たるのか?」という懸念も強かったのです。
その中、真珠湾奇襲攻撃によって、「空母・航空機の時代」を鮮やかに世界中に見せつけた日本海軍。
まさに「自ら実証した空母・航空機の時代への流れ」にピッタリ合わせたかのように「戦艦の王」を登場させました。
実際、戦艦大和は「戦艦の王」ともいうべき存在で、当時の砲撃力・防御力は世界中の艦船を圧倒していたでしょう。
次回からは、いよいよその戦艦大和の巨砲を作成してゆきます。