前回は「戦艦大和のペーパークラフト作成 8〜巨大戦艦に後に設置された対空砲・ただ一つ「日本の別名」を冠した戦艦大和・「世界の戦艦の帝王」登場と山本五十六の思い〜」の話でした。
「世界の戦艦の帝王」の「世界最強の巨砲」主砲
戦艦大和の艦橋付近と高角砲が完成し、ついに主砲の作成に入ります。
「世界の戦艦の帝王」の「世界最強の巨砲」であった戦艦大和の主砲です
大きな円盤が出てきました。
円盤は、小学校2年生の子どもが一生懸命切りました。
円をカッターではなく、ハサミで綺麗に切るのは難しいですが、丁寧に切ってもらいました。
カッターで切断するよりも少し歪ですが、なかなかの出来です。
上の写真の、三角形の接着部分のギザギザは僕がカッターで切りました。
このギザギザを実際に切るのは、細かい作業でかなりの忍耐が必要です。
戦艦大和の製作に入って、ここまで15時間余り経過しました。
「歴史群像の付録」を作成開始した際は、最初は気軽な感じでした。
やはり、説明書に記載されている通り、かなりの時間を要します。
一人で製作していたら、かなりの根気がないと続かない作業ではあります。
実際の戦艦大和の建造には、4年余りの長い時間がかかっています。
米内光政海軍大臣の思い:戦艦大和を「第一号艦建造」として命令
1937年、米内光政海軍大臣に元、海軍省が戦艦大和の建造を指示しました。
機密保持が極めて厳重だった「大和建造」は、「第一号艦建造」と名付けられ、
第一号艦を
建造せよ!
少しのちの1940年に総理大臣にもなった米内は「海軍の顔」とも言える存在でした。
元々はそれほど優秀ではなく「光政」をもじって「グズ政」とあだ名が付けられていたほどでした。
海軍兵学校を68番(125人中、29期)で卒業し、ハンモックナンバーは中位です。
語学力には非常に優れた米内。
ロシア駐在時、
ロシア語は出来るようになった!
米内は1930年「予備役直前」とも言われる鎮海要港部司令官就任後、一気に道が開けました。
その後、第三艦隊司令長官を経て、連合艦隊司令長官に至ります。
思いのほか権限は小さく、「海軍大臣・軍令部総長よりも下の格」の連合艦隊司令長官。
ところが、海軍士官ならば誰しも夢に見る、「最前線の司令長官」になった米内司令長官。
いよいよ
連合艦隊司令長官だ!
日中戦争が拡大し、米英との緊張感が増大する中、テンションが上がる米内。
しかし、なんと2ヶ月ほどで「連合艦隊司令長官・米内光政」は終わります。
えっ?
なんで・・・?
頭脳明晰ではなかったものの、人柄が良く、まとめる力があった米内。
そこで、思いがけない「海軍省内の力」が発生したのでした。
海軍三羽烏の米内光政・山本五十六・井上成美
あの山本五十六が海軍次官であったこの時、米内を海軍大臣に強力に押したのでした。
海軍大臣は
米内さんしかいない!
林総理大臣と仲良しの末次信正海軍大将(海兵27期)の「海軍大臣就任」が双方で決定していた中、
末次さんでは
ダメだ!
強力に米内海軍大臣を推進した、海軍の超実力者・山本五十六海軍次官。
山本がそれほど
言うなら・・・
山本を可愛がっていた前海軍大臣の永野修身もまた、「米内大臣」を推進する側に回ります。
海相は
米内!
最後は、海軍最大の実力者であり、皇族であった伏見宮博恭王が登場します。
伏見宮博恭王の「鶴の一声」で決定した米内海軍大臣。
連合艦隊司令長官の
方が良かった・・・
「たった2ヶ月」とは言え、連合艦隊司令長官となった米内海軍大臣。
新しい艦船建造に対しては、非常に強い思い入れがあったでしょう。
林内閣は短命となり、1937年6月4日に発足した第一次近衞内閣でも海相に就任します。
後に、山本五十六海軍大臣、井上成美海軍軍務局長と共にタッグ組んだ米内光政海相。
「日独伊三国軍事同盟大反対の海軍三羽烏の筆頭」となり、極めて強い権限を有しました。
海兵卒業期 | 名前 | 役職 | |
29 | 米内光政 | 海軍大臣 | |
32 | 山本五十六 | 海軍次官 | |
37 | 井上成美 | 海軍軍務局長 |
山本・井上につながる系譜から、「大鑑巨砲主義ではなく、航空派」とも思われます。
いずれにしても、1937年当時は「戦艦第一」であった世界の海軍。
米内海相もまた、「世界の戦艦の帝王」超巨大戦艦大和に運命を託したのでした。
その巨大戦艦の砲塔を作ってゆきます。
次回は上記リンクです。