前回は「織田信長 8〜覇王の戦略 1〜」の話でした。

悲願の美濃を、とうとう制圧した信長。
桶狭間の合戦が1560年で、美濃制圧は1567年。

東の脅威であった今川を倒して、「美濃に集中」してもなお、7年ほどの時間がかかりました。

実に苦労した・・・
名将だった斎藤義龍が早くに亡くなり、その子 龍興を倒して美濃を手に入れた信長。



しかし、これで美濃・尾張で100万石を
優に超える領土を手に入れたのだ!


領土を広げ続けた武田信玄。
1573年の西上作戦では、徳川の領土の大半を傘下に収めます。
西上作戦開始当時の支配領域は、甲斐・信濃・駿河に加え、上野・飛騨・遠江の一部の130万石程度でした。


苦労したとは言え、「2カ国で100万石越え」を実現した信長。
生まれた場所がよかったのでしょう。
ちょうどタイミング良く、明智光秀が登場します。


この時の光秀の立場は、細川藤孝の元にいた「足軽」という説もあり、大した身分ではなかったようです。
この「足軽」というのは、いわゆる足軽ではなく、「旗本」くらいな意味という説もあります。
しかし、「現将軍の使者」というのは、非常に強い立場です。
「現将軍の使者=明智光秀」が織田家にやってきて、信長に足利義昭の庇護を依頼します。


あまりにタイミングが良いのですが、当時の織田家は濃尾で100万石を超える経済力を持つ織田家。
そして、商業が栄え、津島など海運が発展している港を抑えていたので、非常な財力を有していました。
感覚的にはすでに120~130万石程度の経済力・軍事力を有していたのでしょう。


義昭は、武田信玄・毛利元就・上杉謙信・大友宗麟・北条氏康など大大名含めて、あらゆる大名と連絡をとっていました。
しかし、武田家と上杉家は川中島を挟んで、戦っている最中で、「それどころではない」状況。





足利義輝公には拝謁した・・・



将軍家を護ることは、
私の夢の一つだ。



しかし、
京は遠すぎる・・・



その前に、
うるさい武田を黙らせねば!
大友・毛利・北条は「実力十分」なものの、「京へ進軍する」発想は全くない状況です。





関東を我が手に!
大友・毛利・北条のいずれも、「地域のボス」を目指していただけで、京を目指すことは考えてなかったのです。
その中で、比較的京に近く、やる気マンマンの織田信長率いる織田家を選んだのでしょう。



織田家は、朝廷に対する尊敬心があると聞く。



将軍も大事にしてくれるのではないか。
そして、織田家には非常に優れた人材が多数いることを、事前に掴んでいたに違いない。



織田家こそ、全ての条件を満たす!
喜び勇んだ足利義昭でした。



足利義昭公を将軍として
推戴していただけないでしょうか。



よし、「将軍」の権威を利用しよう!



そして、織田が近畿を押さえるのだ!