足利将軍家の「中世的権威」の活用目論んだ若き織田信長〜悲願の美濃を制圧して大大名になった織田家・「濃尾二カ国」の重み・西上作戦で瞬間的に領土が増えた武田〜|織田信長9・人物像・エピソード

前回は「初めて大々的に楽市楽座を実施した織田信長〜楽市楽座を強行した斎藤道三・斎藤家の「商人の系譜」・「大義名分パワー」を最大化・足利家の中世的権威〜」の話でした。

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

悲願の美濃を制圧して大大名になった織田家

戦国大名 斎藤義龍(Wikipedia)

悲願の美濃を、とうとう制圧した信長。

やっと・・・
やっと美濃を制圧したぞ!

桶狭間の合戦が1560年で、美濃制圧は1567年。

東の脅威であった今川を倒して、「美濃に集中」してもなお、7年ほどの時間がかかりました。

実に苦労した・・・
そして、長い時間が掛かった・・・

名将とも言われ、「信長とは絶対和さない」斎藤義龍が早くに亡くなったことも、信長の幸運でした。

なぜ、こんなにもワシが
早く死なねばならんのだ・・・

そして、義龍の子・龍興を倒して美濃を手に入れた信長。

だが、これで美濃・尾張の
二カ国の大名になったぞ!

100万石を優に超える
領土を手に入れたのだ!

新歴史紀行
戦国期の国別石高(歴史群像シリーズ 1 織田信長 学研)

この頃は、検地はほとんど実行されてなく、「国の石高」はそれほど明確ではありませんでした。

「検地を実施する」ためには、ある程度周囲が平和である必要があります。

そもそも、「検地実施」は年貢を納める農民にとっては、有り難くないことです。

検地なんか、
やっていられない・・・

検地しても、自分には
デメリットしかないしな・・・

「隠し田」が数多くあった当時。

「田を隠して、脱税していた」農民が多かったのでした。

さらに、周囲で合戦・戦争している状況では、

検地している最中に、周囲から
矢や銃弾が飛んでくるかもしれない・・・

検地なんか、
やっていられない・・・

ということで、信長が美濃を制圧した1567年当時、「濃尾100万石」が明確ではなかった可能性もあります。

戦国大名 斎藤道三(Wikipedia)

美濃を制圧した者は
天下を獲る!

俗説の可能性が高いですが、斎藤道三がこういったほどの国であった美濃。

商業が盛んで、大量の米が取れる事実は分かっていたはずで、

美濃から
さらに躍進してみせる!

若き信長は意気揚々としていました。

「濃尾二カ国」の重み:西上作戦で瞬間的に領土が増えた武田

戦国大名 武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

領土を広げ続けた「甲斐の虎」武田信玄。

甲斐守護の
超名門の武田だが・・・

周囲に侵略を続けて、
どんどん我が領土を広げるのだ!

1572年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

西上作戦開始当時の支配領域は、甲斐・信濃・駿河に加え、上野・飛騨・遠江の一部を領した武田。

武田信玄の最盛期、武田家の領土は130万石程度でした。

そして、1573年の西上作戦では、徳川の領土の大半を傘下に収めます。

この頃、武田家の領土は瞬間的には160万石〜170万石程度にはなったでしょう。

ところが、

無念だ・・・

武田信玄は西上作戦中に病死してしまいました。

新歴史紀行
戦国大名 徳川家康(Wikipedia)

信玄が死んだなら、
武田も怖くないわ!

そして、この「瞬間的に獲得した領土」は、徳川家に取り返されてしまいました。

苦労したとは言え、「2カ国で100万石越え」を実現した信長。

信長は「生まれた場所が良かった」非常に運の強い男でもありました。

足利家家臣 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

ここで、ちょうどタイミング良く、明智光秀が登場します。

この時の光秀の立場は、細川藤孝の元にいた「足軽」という説もあります。

大した身分ではなさそうな「足軽」だった明智光秀。

この「足軽」というのは、いわゆる足軽ではなく、「旗本」くらいな意味という説もあります。

いずれにしても、「将軍になりうる高貴な人物の使者」というのは、非常に強い立場です。

「現将軍の使者=明智光秀」が織田家にやってきて、信長に足利義昭の庇護を依頼します。

1568年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

あまりにタイミングが良いのですが、当時の織田家は濃尾で100万石を超える経済力を持つ織田家。

そして、商業が栄え、津島など海運が発展している港を抑えていたので、非常な財力を有していました。

美濃と尾張で商業を
さらに発展させるぞ!

感覚的にはすでに120~130万石程度の経済力・軍事力を有していたのでしょう。

つまり、この時点で、織田家は5年後の「最盛期の武田家同等かそれ以上」の領土を持っていたのでした。

足利将軍家の「中世的権威」の活用目論んだ若き織田信長

後の第十五代将軍 足利義昭(Wikipedia)

もうすぐ「将軍になる予定」の足利義昭。

誰か私に力を
尽くして、将軍にしてくれないか・・・

そしたら、副将軍や管領に
してあげるんだが・・・

義昭は大大名を選抜して、多数の大名と連絡をとっていました。

武田信玄・毛利元就・上杉謙信・
大友宗麟・北条氏康・・・

戦国大名 上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「正義の武将」の可能性が高い上杉謙信は「、期待大」です。

上杉謙信は、
なんとかならないか・・・

ところが、武田家と上杉家は川中島を挟んで、戦っている最中で、「それどころではない」状況。

足利義輝公には
拝謁した・・・

将軍家を護ることは、
私の夢の一つだ・・・

しかし、
京は遠すぎる・・・

その前に、
うるさい武田を黙らせねば!

戦国大名 北条氏康(Wikipedia)

北条や毛利は
どうだろうか・・・

大友・毛利・北条は「実力十分」なものの、「京へ進軍する」発想は全くない状況です。

関東を
我が手に!

大友・毛利・北条のいずれも、「地域のボス」を目指していただけでした。

そして、「京を目指す」ということは考えてなかったのです。

「考えていなかった」というよりも、「今日を目指す発想」すらなかったのが現実だったでしょう。

その中で、比較的京に近いところに、やる気マンマンの若者がいました。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
戦国武将大名の生年

旭日の勢いで、成長している織田信長率いる織田家でした。

織田家は、朝廷に対する
尊敬心があると聞く・・・

信長の父・信秀は朝廷に
献金を続けていた・・・

だから、将軍も大事にして
くれるのではないか・・・

明智光秀は、織田家に関する情報を集めます。

織田家は軍事力・経済力が
抜群で、家臣団も優れている・・・

なんと言っても、
信長の能力は抜群だ・・・

そして、織田家には非常に優れた人材が多数いることを、事前に掴んでいたに違いないでしょう。

義昭様、織田家が
良いかと思います・・・

織田家こそ、
全ての条件を満たすな!

よしっ!
光秀、お前が織田家へ行ってこい!

喜び勇んだ足利義昭でした。

足利義昭公を将軍として
推戴していただけないでしょうか・・・

よし、「将軍」の権威を
利用しよう!

そして、織田が近畿を
押さえるのだ!

新歴史紀行

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