前回は「足利将軍家の「中世的権威」の活用目論んだ若き織田信長〜悲願の美濃を制圧して大大名になった織田家・「濃尾二カ国」の重み・西上作戦で瞬間的に領土が増えた武田〜」の話でした。
美濃を制圧した信長の視線:足掛け8年の美濃侵攻
美濃を制圧して意気揚々としていた信長。
やっと美濃を
制圧した!
織田家の美濃侵攻には、実に8年もの歳月がかかりました。
美濃を攻撃開始したのは、
桶狭間で今川義元を打ち破った直後だった・・・
東の大いなる脅威であった今川家に痛恨の打撃を与えた若き織田信長。
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
桶狭間の戦いが勃発した1560年当時は、まだ27歳(数え年)の若造でした。
あの時は、
まだ27歳であった・・・
それから8年間の歳月をかけて、ようやく美濃攻略に成功しました。
美濃と尾張はちょうど50万石余りで「同等の石高」の国です。
そして、いずれも商業が盛んであり、美濃と尾張は「同等の国力を有する国」でした。
さらに、斎藤家が強力であったために8年もの歳月がかかりましたが、信長が「得たもの」は莫大でした。
わが織田家の
領土・国力は一気に倍になったぞ!
そして、信長の視線は大いに広がりました。
大国二カ国を得て、大大名となり「美濃の先」を睨んだ信長。
戦略的視野が一気に広がった織田信長
織田家・織田信長にとっての宿願であった美濃奪取。
それは義理の父であり、前々美濃国主であった斎藤道三の悲願でもありました。
「父」と言われているが、
私の「敵」である道三を討つ!
晩年に、長男である斎藤義龍に叛かれた斎藤道三。
美濃は、我が娘婿・信長へ
譲ろう・・・
信長へ異例の「美濃国の譲り状」を出していました。
道三殿をなんとしても
救うのだ!
そして、信長が援軍に向かうも、
ぐふっ・・・
無念だが、これもまた私らしいか・・・
息子・義竜に攻撃され、討死してしまった道三。
この「美濃国の譲り状」は諸説ありますが、とにかく美濃を執拗に攻撃し続けた信長。
道三殿・・・
やっと、やっと・・・
美濃を
我が手にしましたぞ!
尾張から美濃を一点集中攻撃していた信長は、「戦略的視野」が一気に広がりました。
織田信長の動きをずっと見ていた明智光秀
成長著しい織田家をよく見ていたのが、当時は足利義秋(義昭)の家来だった明智光秀でした。
精強な軍団と甲斐金山を持つ武田信玄と比較しても、織田家は十分な実力。
佐渡の金山と越後の港を有していた上杉輝虎(謙信)と比較しても、十分な実力。
石見銀山を持ち、広大な領土を持つ毛利元就にも比肩できます。
毛利家は「銀山の所有権は幕府に差し出していた」という説もありますが、強い国力を持っていました。
九州で南蛮との繋がりを深めている大友家と比較しても、財政力が強い存在です。
「出来星大名」など生ぬるい立場ではなく、すでに「実質最大の戦国大名」の一つである織田家。
近くでもあった織田家を、足利義秋(義昭)が頼りにするのは、むしろ当然の流れでした。
義秋様・・・
天下の大名を見回すと・・・
織田信長を
頼るのが良いかと・・・
うむ・・・
確かに織田は強力な大名じゃのう・・・
しかし、
私をしっかり立ててくれるか?
私が様子を
見てきましょう。
将軍・足利義秋(義昭)の家来だった光秀は、織田家へ「将軍の使者」として向かいます。
次回は上記リンクです。