前回は「織田信長 7〜覇王の考えた未来 3〜」の話でした。

軍事面ではなく、信長を経済・財政面から読み解きましょう。
「楽市楽座初め、その独創性で経済革命を起こした人物」と語られることが多い織田信長。
実際には、楽市楽座は斎藤道三などの大名が、先に実施しました。


楽市楽座は、信長よりもワシが先!
彼らが信長が実施する前、既に実施していたことが分かっています。



蝮の道三は、天才なのだ!
そのため、楽市楽座は「信長の独創」ではありません。
しかし、おそらく大々的に実施したのは信長が最初でしょう。



私が、大々的に楽市楽座を実施したのだ!
政策は大々的に実施してこそ意味が大きく、影響が大きいです。
既存にあった政策を「信長なりに解釈して、大型実施」したことには大きな意義があります。
規模も含めて考えれば「信長の独創」ではなくても、「信長の大きな功績」でしょう。


桶狭間の戦いで、今川義元を討ち取り、独立した徳川家康と同盟した信長。
以前は、南の海を除いて、「三方を敵に囲まれていた」非常に苦しい状況だった信長は、一気に道を切り開きます。



東は家康に任せた!



まずは稲葉山城を落とす!



美濃を制圧しなければ、何も始まらないわ!
信長は、このように考えていたでしょう。
その美濃制圧には、かなりの時間がかかりました。
桶狭間の戦いのあった1560年から、断続的に美濃を攻撃します。
そして、1567年の美濃制圧直後、明智光秀が登場し、足利義昭を奉じて入京する方針を固めます。









信長様に足利義昭様を報じて、
入京していただきたい!



そして、足利家を再興して頂きたい!



良かろう!



これで大義名分が出来たわ!
周囲が敵だらけで多大な苦労をした信長。
東に徳川家康、西に浅井長政と同盟し、武田信玄とも誼を通じて、万全の体制で、足利義昭を奉じて、京へ乗り込みます。



まだまだ織田の力は、天下に覇を唱えるほど
強くはない。



大義名分は大事なのだ!



上杉謙信も「関東管領となって、関東を治める」という
大義名分があったからこそ、あれだけの勢力になった。



私も、あの「大義名分パワー」を見習って、京へ乗り込むのだ!