前回は「織田家中で「余所者で外来の身」だった光秀〜フロイスの光秀への悪意・織田四天王四人のうち三人が非譜代・「計略と策謀の達人」光秀〜」の話でした。
ありえない信長の「光秀殴り」:信長の徳川家への重大なる配慮

「永遠の謎」と表現しても良い、本能寺の変における「光秀謀反の原因」。
古来から、「光秀が謀反を起こす決意の原因」として、多数挙げられ、脚色され続けました。
その「脚色」の中で最たるものは、「信長が光秀を殴った」事件です。
諸説ありますが、この「光秀殴り」は、筆者は「なかった」と考えます。

信長の一生を描いた「信長公記」にも、本能寺前後の記録が詳細に残されています。
信長公記家康・梅雪・石川数正・酒井忠次、
このほか家康の家老衆にも食事を出し・・・



忝ないことには、信長自身も
膳を並べて一緒に食事をし・・・



敬意を表すること
ひとかたならぬ様子であった。
「信長公記」において、信長が家康に対して、極めて配慮していることが記載されています。
「本能寺」直前、信長が家康・徳川家臣団をもてなした話を、上記リンクでご紹介しています。
注目すべきことは、石川数正・酒井忠次ら、徳川家臣団への信長の配慮です。


| 名前 | 生年(諸説あり) |
| 織田信長 | 1534年 |
| 柴田勝家 | 1522年 |
| 滝川一益 | 1525年 |
| 明智光秀 | 1528年 |
| 丹羽長秀 | 1535年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
桶狭間の戦いがあった1560年、まだ27歳(数え年、以下同)だった信長。
信長の9歳年下の家康は、当時まだ18歳でした。
そして、諸説ありますが、概ね1562年頃から強固な織田・徳川同盟を続けた織田・徳川。
裏切り・謀反が「日常茶飯事」だった戦国の世において、尋常ならざる長期・顕密な同盟でした。
この20年の間に、「信長・家康、織田・徳川重臣しか知らないこと」も多数あったはずです。
そして、それらの中には「記録に残ってない事実」も多数あるはずです。
この中、ずっと同盟を堅持し続けていた徳川家・家康・徳川家臣団に信長は感謝していました。
同様に「自分に尽くしてきた」光秀を、信長が「殴る」のは「あり得ない」と筆者は考えます。
「誰にも増して、絶えず信長に贈与」した光秀:淡白な知識人の横顔





忍耐力に富み、計略と策謀の
達人であった。



また、築城のことに造詣が深く、
優れた建築手腕の持ち主で・・・



選り抜かれた戦いに熟練の
士を使いこなしていた。
とかく、冒頭から、明智光秀をボロボロに言っているフロイスですが、光秀の実力は認めています。
中でも、「築城術の造詣の深さ」に明瞭に触れており、「優れた建築手腕」と表現しています。
本能寺の変・山崎合戦の余波で、明智光秀肝いりの坂本城は消えてしまいました。
そして、坂本城を源流とする今治城は、いかにも優美な建築です。
フロイスが、「自分の庇護者・信長を消した憎き光秀」の技量を客観的に伝えている点は重要です。
この点からも、フロイスの、



彼はもとより
高貴の出ではなく・・・
「光秀の出自は低い」という記録の信憑性は高いと考えます。



彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、
その親愛の情を得るためには・・・



彼を喜ばせることは万事につけて
調べているほどであり・・・



彼の嗜好や希望に関しては、いささかも
これに逆らうことがないよう心がけ・・・



彼の働きぶりに同情する信長の前や、
一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して・・・



自らはそうではないと装う必要がある
場合などは涙を流し・・・



それは本心からの涙に
見えるほどであった。
この記述も注目です。


織田四天王や織田家重臣の中で、「信長への貢物」と言ったら、



上様!この秀吉、
大量の土産を持参い致しました!
このように、秀吉が大量の、莫大な貢物を信長に献上し、



ふっ、猿めが・・・
大したものよ・・・
このように「信長が喜ぶ」イメージが一般的です。
「信長の気持ちを察するナンバーワンは、秀吉」というイメージが、小説などでは多いです。
そして、このように「信長の気持ちを察する秀吉」像から、「草履温め秀吉」の逸話が生まれました。
ところが、フロイスの記載によると、「信長の気持ちを察するナンバーワンは、光秀」でした。
どちらかというと、知識人であり、贈り物などには淡白な印象が強い光秀。
ところが、実情は真逆であり、



彼は誰にも増して、絶えず信長に
贈与することを怠らず・・・
「誰にも増して、絶えず信長に贈与」と言っているフロイス。
ここで、一般的なイメージである秀吉などの貢物の話があれば、フロイスは書きそうです。
ただし、後に豊臣秀吉の時代になった時、秀吉を面罵し続けたフロイス。
秀吉に対する悪感情から、イエズス会に報告書を送付する際に削除した可能性もあります。
現代と異なり、当時は、「ある程度まとめて報告書送付」だったので、作為の可能性もあります。
その一方で、「本能寺」と言う当時の極大事件は、早々にイエズス会に報告をあげたと思われるフロイス。
この観点から、光秀=「信長へ最も贈答した織田家臣」は事実と考えます。



信長様に
気に入られなければ・・・



絶えず、絶えず、信長様に
望むものを献上するのだ・・・
実際は、光秀は信長に対して異常なまでに配慮して、貢物を献上し続けていたのでした。
そして、そんな光秀を信長が「殴る」ことは、「あり得ない」と考えます。


