前回は「ルイス・フロイスが見た「本能寺」〜「高貴の出ではない」光秀・「ときは今」の真相=謀反の「時」・光秀が超名門土岐とは無関係の事実〜」の話でした。
織田家中で「余所者で外来の身」だった光秀:フロイスの光秀への悪意

緻密極まりない、戦国時代を描いているルイス・フロイス「日本史」。
ルイス・フロイスは、本能寺の変を語るにあたり、明智光秀に関して語っています。
Frois信長の宮廷に惟任日向守殿、
別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。



彼はもとより高貴の出ではなく、
信長の治世の初期には・・・
フロイスは「光秀など、大した身分ではなかった」とハッキリ言っています。



その才略、深慮、狡猾さにより、
信長の寵愛を受けることとなり・・・
ここで、光秀が「才略と深慮があった」点は認めていますが、続いて「狡猾さ」とあります。
「狡猾さ」には、悪意が込められているのは当然であり、これがフロイスの光秀の人間像でした。
ただし、この点は、「本能寺の変の後(直後)に書いた報告書」であることを考慮する必要があります。
信長とは、利害関係含めて、実に様々な状況にあったフロイスやイエズス会。
その一方で、フロイスやイエズス会にとって、信長は「概ね大いなる庇護者」でした。
その「大いなる庇護者・信長を殺害した」ことに対する怒りが込められている、と感じます。



殿内にあって彼は余所者であり、
外来の身であったので・・・



ほとんど全ての者から快く
思われていなかったが・・・



自らが受けている寵愛を保持し
増大するための不思議な器用さを身に備えていた。
光秀は、織田家中で「余所者で外来の身」だったと語るルイス・フロイス。
| 名前 | 生年(一部諸説あり) | 譜代 |
| 林秀貞 | 1513年 | ◯ |
| 柴田勝家 | 1522年 | ◯ |
| 滝川一益 | 1525年 | ✖️(28歳頃〜) |
| 明智光秀 | 1528年 | ✖️(42歳頃〜) |
| 佐久間信盛 | 1528年 | ◯ |
| 織田信長 | 1534年 | -(当主) |
| 丹羽長秀 | 1535年 | ◯ |
| 羽柴秀吉 | 1537年 | ✖️(20歳頃〜) |
「身分に関わらず、大抜擢した」織田家と呼ばれることが多い織田家。
他の家ならば「重臣は全て譜代か身内」であるのに対して、織田家重臣は「非譜代」が多いです。
この一覧表には、「織田家末期(後世から見て)」に追放された林・佐久間を入れています。
現実として、「林・佐久間なし」には、織田家の興隆は「なかった」と考えます。
織田四天王四人のうち三人が非譜代:「計略と策謀の達人」光秀


中でも目立つのが、織田四天王と呼ばれる「方面軍司令官」の出自です。
織田四天王のうち、譜代は柴田勝家のみであり、「四人のうち三人は非譜代」でした。
この現象は、他の家では決して見られなかった現象でした。
当時、一定の所領を信長から貰い、「堂々の戦国大名」格だった織田四天王の武将たち。
諸説ありますが、直轄領と事実上の支配領域は、それぞれ50〜100万石ほどありました。
それにも関わらず、「生年が諸説ある」人物が多く、明智光秀・滝川一益は特に謎が多いです。
その一方、確かに「非譜代」であっても、一益と秀吉は若い頃から信長に仕えていました。
この点では、明智光秀と滝川一益・羽柴秀吉は、大きな違いがありました。
明智光秀が、織田家で「孤立気味であった」点をフロイスは指摘しました。
この点は、「本能寺」後の悪意が込められているとは言え、重大な指摘と考えます。
「浮いていた明智光秀」は、大出世したものの「自分は別」と疎外感を感じていたように思います。



彼は裏切りや密会を好み、
刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが・・・



己を偽装するのに抜け目がなく、
戦争においては謀略を得意とし・・・



忍耐力に富み、計略と策謀の
達人であった。
光秀を、フロイスは「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的」と切り捨てています。
光秀が、とてつもない悪者であるような印象を受けるのが、フロイスの光秀評です。
とにかく、「悪逆極まりない人物」のように描いている「フロイスの光秀像」。
その一方、「忍耐力に富み、計略と策謀の達人」と記載し、「超一流武将であった」ことを認めています。
「達人」という表現もまた、西洋らしく面白いです。
「本能寺」の頃、「信長が上京した理由」は諸説ありますが、「織田の天下」は1〜2年以内だった当時。
そして、毀誉褒貶もあった信長は、概ね「キリスト教・イエズス会」に対して好意的でした。


延暦寺を焼き討ちし、フロイスにとっては「仏敵を滅亡させた」信長。
その信長を殺し、「信長の世=キリスト教の世」を潰した光秀。
光秀に対して、とにかく激怒していたフロイスでした。

